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【随筆】石田波郷俳句大会句の鑑賞

 今回は、角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷いしだはきょう俳句大会」より、一般の部に属する句をいくつかご紹介したい。当大会は昨年八月頃までに募集された句から選考されている。

 俳人・石田波郷は戦後まもなく結核により東京の清瀬にある病院に入所した。その後も病と共に句作を続け、五十半ばの若さで亡くなっている。その事実から、石田波郷の句の背景に「病」を見出すことは俳句の鑑賞として不適切かもしれないが、くしくも病を思わせる句が大賞となった。病は誰にでも起こりうることであり、本大会の句を通して何か得られるものがあれば幸いと考えている。

 また、句の鑑賞・解釈は、私個人の感想であるためご参考程度に読みくだされば幸いである。

 大賞に輝いたのは次の一句。

病室に妻の日傘の白さかな 伊藤明子

角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷俳句大会」

 季語は日傘で夏。場所は病室だから、作者は何らかの病か怪我で入院しているのだろう。窓の外は炎天下。そのなか妻は病院へ来てくれているようだ。日傘の白は女性、云わば妻の誠実な在り方の象徴であり、夏の快活な情趣をも感じさせる。
 それに対比するように、無機質な白壁に囲まれた病院環境は必ずしも快適とはいえないだろう。妻との時間は嬉しいはずだ。家を離れて気付くこともある。言葉少なくとも、心地よい沈黙のなかで、妻の日傘の白に夫婦の来し方のすべてが垣間見られるようだ。
 また、作者の名前をみると女性であり、夫視点の句を詠んだのだろうか。余談だが、「妻」という言葉は、白川静氏の『字訓』によれば、ものの両側面を意味しており、たとえば棒の端と端など、妻と夫のどちらからみても、相手はツマである。その後、現在の妻の意で用いられるようになったが、本来は男女の区別なく同じ意味なのである。いずれにしても、夫婦関係の美しさを感じさせる一句である。

 次は清瀬市長賞の一句。

ながらへて今も戦後や草の餅 古郡孝之

角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷俳句大会」

 季語は草の餅で春。草餅を前にして、人生を振り返る思いが起こったようだ。生き長らえて、今も戦後であるという。戦争を経験していない私に共感しえない部分はあるかもしれないが、戦争経験者の戦後の苦しみは知識のうえで理解しているつもりである。
 「存へて今も戦後や」の感慨と、草の餅との関係性は俳句独特の感性によって掴むものだ。草の緑、餅、春、長寿、平和。苦痛、死、冷酷、戦争。本句、作者の思いをわずか十七音に込めるには、草の餅が最適なのである。

 次は角川「俳句」編集部賞の一句である。

ホスピスの窓から朝のしゃぼん玉 知念哲庵

角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷俳句大会」

 季語はしゃぼん玉で春。ホスピスとは、末期がんなど死の近い終末期患者を療養する目的につくられた看護施設である。私事であるが、実習生時代の終末期病棟実地研修で、三日目の朝、突然、実習拒否をされてしまったことがある。ご家族とお話しできたが、抗がん剤治療は多大なる苦痛を伴うため、誰にも会いたくない日もあるという。私の実直な思いとしては、実習生である私は何ら力になれなかったのだと思う。
 私にはそんな思いもあってか、ホスピスの窓からしゃぼん玉がふわふわと舞う様は、美しくも悲しい。しゃぼん玉は朝日に照らされ虹色に輝いているに違いない。しかし、すぐに割れ、消えてしまうのだろう。
 窓からしゃぼん玉を吹いているひとは、死を待つ人なのか、それともご家族なのか。春の朝日に輝くしゃぼん玉には、悲しみのみならず、わずかな希望も包まれているのではないか。少しでも長く大空に舞っていてほしいと思えてならない。

次は石寒太特選の一句である。

波郷忌の樹樹森閑と冬の鵙 平野暢行

角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷俳句大会」

 季語は波郷忌と冬のもずで、どちらも冬。鵙単体では秋の季語だが、「冬の」とすれば当然ながら冬の季語になる。今回の俳句大会の名にもなっている石田波郷の命日は十二月である。
 一句に複数の季語がはいることを「季重きがさなり」と呼ぶ。季語はそれ自身のもつ働きがたいへん強いため、一句にひとつの季語が基本ではあるが、ふたつの季語がそれぞれ活きるのであればよいのである。俳句は十七音と短い分だけ、パワーワード同士の喧嘩が生じやすい。(感覚の異なる、気の強い人同士が狭い部屋でずっと仕事をしていたら・・とも換言できようか)
 季語、波郷忌は当然ながら、石田波郷の人生を立ち上げる。結核と闘いながら作句を続けてきた波郷の意志を感じる。その寒い冬、静まり返った森に鵙をみる。鵙は蛙などの獲物を串刺しにする”はやにえ”の習性で知られることからも、残酷な印象も拭えないのだが、ヒトのそれとは全く次元の異なる行いであろうし、澄んだ鳴き声やスズメ目に属するかわいらしい容姿をもつ。
 冬の静謐せいひつな森と鵙。俳人・石田波郷と”なんとなく”響きあう。石田波郷の人となりを知らないかたには伝わりにくいかもしれないが、逆に、冬の静謐な森と鵙から波郷を想像できるかもしれない。
 

次は岸本尚毅特選の一句である。

花の辻郵便バイク傾げつつ 長嶺奈都子

角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷俳句大会」

 季語は花で春。つじとは道の交わるところ。花は桜とみるのが、古典短歌でもみられる一般常識なのだが、その限りではない。「きごさい歳時記」によれば、桜は肉眼でみたもの、花は心の目に映るものという。もちろん、本句の場合、花咲く交差点を郵便バイクが曲がっていく瞬間の景である。しかし、作者のみた”花の辻”は、現実世界よりもはるかに動的で美しい。花弁が風に舞う様子さえもみえてこないだろうか。”傾げつつ”と終止させずに続いていく雰囲気をだしているのもよいと思う。ただし、俳句として切り取った瞬間は、まさに郵便バイクが斜めになった瞬間で動かない。読者のこころに余韻として続いていくのだ。

最後は、鈴木しげを特選の一句である。

惜命しゃくみょうの句碑に湧き出づ赤とんぼ 三好游糸

角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷俳句大会」

 季語は赤とんぼで秋。前述の波郷忌は、惜命忌ともいわれるが本句の惜命は季語として書いているのではないと思う。
 惜命の句碑とは、石田波郷の句集『惜命』なのか、他者の詠んだ惜命の句なのかは私にはわからないが、いずれにしても、惜命を強く感じさせる句碑を目の前にしているのだろう。
 そこに、湧き出るように赤とんぼが舞い始めるのだ。たいへん文学的である。句碑を目の前にした事実と、赤とんぼの湧き出る事実に特別な因果関係を見出すのが文学であろう。まるで、作者が死者と対話しているかのようだ。

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