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【小説】守り電

 一人暮らしを始めて以来の日課は、心配性の兄に最低一言何かメッセージを入れること。だいたい夜八時。忙しい時は面倒だし、寂しい時は有難い。電話をすれば必ずと言っていいほど出てくれる。ただ、他に用事はないのか訊きたくなってしまう。
 いい加減シスコンを卒業しないと彼女も出来ませんよ。

 そうメッセージを送る代わりに、「会ってほしい人がいる」と彼氏の存在を匂わせた。夏の終わりのこと。兄からの返事は、「心して会う」だった。


 当日、兄は切りたてジョリジョリの髪型で、グレーのスーツを着て現れた。太い首元に暑苦しくネクタイまでしていた。アメフトを辞めた後も筋トレを続けているのだろう。どう見てもただの太っちょではなかった。
 普段着で来てしまった智也は、しきりに恐縮して汗をハンカチで拭った。若干なよっとして見えるけれど、実は彼も体育会系。専門は陸上の長距離走だ。

 喫茶店に入り、改めて彼氏だと紹介すると、兄は目にうっすらと涙を浮かべた。
「よしっ、親父に代わって一発殴らせろ」
「え?! そんなの駄目だよ」
 私は慌てた。時代錯誤も甚だしい。
「はい。お受けいたします」
「え?! なんで?」
 私はますます慌てた。やはり男は馬鹿なのか。
「よしっ、表に出ろ」
「止めなよ。恥ずかしいでしょ」
 すると、兄は勢いよく立ち上がった。
「お前を守る為なら俺はどんな恥ずかしいことでもする!」
 すかさず智也も立ち上がった。
「それは僕も同じです!」
 店内はしんっと静まり返った。どこからか拍手が沸き起こった。そして、二人が店の外に出ていくと私は一人きりになり、「お姉ちゃん、愛されてるねえ」などと声を掛けられ、えらい恥ずかしい思いをした。

 戻って来た二人は肩を組んでいた。本当に殴ったのか分からないけれど、智也は鼻の右側にティッシュを刺し込んでいた。
「智也、君には親父のことを語っておかなければならない」
 突然の呼び捨てに私は笑い出しそうになった。兄はこちらに顔を向けた。
「例の携帯はあるな?」
「・・・あの話をするの?」
「当然だろう」
 私は智也の顔をちらりと見た。信じてもらえないと思いながら、抜け殻の如きかつての携帯電話を鞄から取り出した。折り畳み式のそれは、とうに通信機能を失っているけれど、私の大事なお守りだ。


 ―――厳しかった父。
 禁止していた携帯電話を買ってくれたのは、高校三年の夏休みだった。
「何かあったらすぐに電話をしなさい」
 私は或る大学のキャンパス見学会に参加しようとしていた。一人で上京するのは初めてだった。
 携帯電話の連絡先には、兄の番号も登録されていた。アメフトの試合があったお陰で、付き添いを拒む必要はなかった。

 夏空の下、電車を乗り継いで無事にたどり着き、有意義なキャンパス見学会を終えると、なんだか気持ちが大きくなった。未来は洋々と輝いている気がした。
 つまり、帰り道は完全に油断した。東京は怖い人ばかりという脅かしをすっかり忘れていた。
 夕方の混み合った電車内。手すりに掴まり立っていると、背後で携帯電話が一度だけ鳴った。
「すみません」
 小さく頭を下げ、背負ったリュックサックをぐるりと手前に持って来た。そのファスナーが半分ほど空いていた。はっと振り返ると、顔を逸らすおじさんがいて、すぐに半開きの中身を確認した。恐らく間一髪、何も盗られていなかった。
 助けられた携帯電話の着信音。不思議なことにその履歴はなく・・・
「お父さん、今さっき電話した?」
「おお? 気持ちが届いたか。しようと思って止めたんだが」
 
 結局、私は地元の大学に進学したけれど、理由は東京を恐れてのことではなかった。漸く買ってくれた携帯電話が、最後のプレゼントとして、父の形見になってしまった。あまりに急なこと。私は受け入れるまでに時間がかかり、一年浪人した。

 そして、三年後の或る蒸し暑い夜。
 私は寂れた地元の繁華街を早足で歩いていた。夜は滅多に通らないけれど、その時は仕方がなかった。両耳にイヤホンをしていた。それでも声を掛けてくる人がいて、しつこかった。いかにも遊んでそうなお兄さん。全く興味がない。止めてほしい。
 そう思った直後、ハンドバッグの中で携帯電話が鳴った。普段使っている方ではなく、すでに通信は切れているはずだった。
「今どこにいる?」
「え!? お兄ちゃん?」
 声がそっくりだった。私は今どこにいるのかざっと説明した。
「おう! じゃあすぐに行く」
 次の瞬間、脇道から現れたのは―――
 

「父だったと信じているの。彼氏のふりをしてナンパ男を追い払った後、何も言わずに駆け足で立ち去った」
「素敵なお父さんだね。僕も信じるよ」
「天国だと若返るのかな。私と同じくらいに見えた」
 すると、智也の視線が私の手元に注がれて、私は大事なお守りを差し出した。恭しく手にした智也の様子に、兄は目を細めた。
「親父、何も言うことはないか?」
 智也はびくりと背筋を伸ばした。彼に対する父の答えは、鳴らないことで示された気がした。

                         ※以上、本文2000字

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