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【随筆】令和俳壇・四月号の鑑賞

 俳句の専門雑誌のひとつである角川出版の「俳句」より、一般読者からの投句をいくつかご紹介したい。いずれも、プロの俳人に高い評価を得たものであり、俳句の魅力をお伝えするに適した作品であると考えている。
 また、一般読者が投句されてから雑誌に掲載されるまで、四か月かかるため、今の季節、春に合わない冬の句である点はご了承願いたい。
 また、句の選と解釈は私個人の感想であるためご参考程度にお読みくだされば幸いである。解釈の数は、読者の数と同じだけあると考えている。

 句の引用はすべて、①句(作品) ②作者の雅号 ③選者名・評価 の順に掲載した。

 足跡にみづの滲み出す雪野かな 港のパン屋 対馬康子選・秀逸

角川俳句令和四年四月号

 季語は雪野。銀色に輝く雪野には、遥か彼方まで足跡が続いている。足跡の凹みには太陽の光をうけて溶け出した水が滲み出している。
 作者がだれかの足跡をみている場面を私は考えたが、自分の足跡を振り返っている場合も考えられるだろう。
 「みづ」とは古典的な表現である。もちろん、水の意味なのだが、瑞々しい―若々しく美しいと連想してもしっくりくるようだ。雪につづく足跡は、まるで春の予祝のように思えてくる。

 枯木いま地中のこゑを聞きゐたり 藤川木人 岩岡中正選・秀逸

角川俳句令和四年四月号

 季語は枯木。枯木はいまこの瞬間にも、地中の声に耳を傾けている。
 俳句につかう枯木の語は、立ち枯れの木(死んでしまった木)ではなく、葉を落とした木のことである。寒空のもと、木々はじっと大地の声に耳を澄ましているのだ。決して華やかとは言い難い枯木にも、静かな命の鼓動は続いているのである。
 地中のこゑとは何だろうか。物質的な音のみならず、こころで聴こえる何かに違いない。作者と枯木の魂がつながったようにも思える瞬間だ。

 霧氷林ならざるはなき山湖かな 熊岡俊子 山田佳乃選・推薦

角川俳句令和四年四月号

 季語は霧氷。周囲すべてが霧氷林となった山湖に感動した瞬間である。霧氷林になら”ない”木々の”ない”山湖、と二重否定した表現だ。その成果か肯定の意味が強められている。それほどみごとな霧氷林なのだ。
 推薦句には、選者の評もつくため以下にご紹介する。
 選者の山田佳乃氏の評によれば、”霧氷林でないところはない、という強調によりその地の厳しい寒さが感じられる。半透明の白い世界と一切の命が鎮もる山湖に清浄な美しさを感じる”とある。

 村の名を橋に残して村枯るる 萩原天香 井上康明選・推薦

角川俳句令和四年四月号

 季語は村枯るる(冬枯)。近年は、市町村合併により消えてしまう村名も少なくないだろう。草木は毎年枯れるものだが、本句からは永遠の枯れのようにも思えてくる。若者は仕事を求め街へいき、村は寂しくなるばかりだ。橋に残る名前のみが、村の歴史を留めるのだろうか。
 余談だが、最近は田舎暮らしをする若者も増えているとか。良くも悪くも、世代は代わり新しい時代がつくられる。哀愁は詩情として感動するものであり、実社会の現状を嘆くものではない。本句の美は、嘆きではなく感動なのだ。
 選者の井上康明氏の評は次の通りである。”昨今の市町村合併を想像させる。村だった集落も合併によってその名を失ったが、川にかかる橋に村の名が付いている。冬に入って村とともにある山野は、枯れ枯れと広がっている”

 融通が利かずどうにもブロッコリ ちゃうりん 五十嵐秀彦選・推薦

角川俳句令和四年四月号

 季語はブロッコリ。濃い緑から夏を連想しそうだが、冬の季語である。融通が利かず/どうにもブロッコリ、とふたつの事実をぶつけている。融通が利かないことと、どうにもブロッコリがどうして意味としてつながるのか?と疑問に思われるかたも多いだろう。むしろ、その疑問が俳句の要諦である。意味として完全につながっていたら、単なる短い散文であり、詩ではないのだ。融通が利かないなあと誰かに対する思いが、どうにもブロッコリと転換する妙が面白い。ただし、分かるような分からないような、の塩梅は難しい。
 選者の五十嵐秀彦氏の評は次の通りである。”つくづく自分は融通が利かない、と情けなく思っているのだ。要領のよい人たちが多いなかでますます自分が浮いてしまう。その悩みを<どうにもブロッコリ>だけは食えないよ、と飄軽に言い換えてしまう転換が面白い”

 落葉界まだ遊ぶもの腐るもの んん田ああ 小林貴子選・秀逸

角川俳句令和四年四月号

 季語は落葉。地面がみえないほどに埋め尽くされた、いちめんの落ち葉を的確に表現している。風にゆられて遊ぶものもあれば、下のほうで土に還っていくものもあるのだ。落葉界は造語かと思われるが、この景色を表現するに的確である。ずしりと響く体言だ。私は、”らくようかい”と読む。”おちばかい”なら五音なのだが、前者のほうが字余りを気にさせないほどによい響きだと私は思う。

 冬夕焼メロス走つて来るような 鈴木健示 白岩敏秀選・秀逸

角川俳句令和四年四月号

 季語は冬夕焼。ちなみに、夕焼単体では夏の季語である。メロスは”メロスは激怒した”の冒頭が印象的な太宰治の小説である。メロスが走って来るような夕焼は、小説を読んだかたではなければ共感できないだろうが、義務教育で学ぶ教材はおよそ普遍性があると思っていいだろう。逆に誰も知らないような書名を詠みこむ場合は注意が必要だ。
 荒涼とした大地でなくとも、街中へ差し込む真っ赤な夕焼からは、芥子粒のような小さな影、勇者メロスが走ってくるようだ。

「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」

太宰治『走れメロス』青空文庫

 地に還るものうつくしき冬野かな 物江里人 櫂未知子・推薦

角川俳句令和四年四月号

 季語は冬野。きごさい歳時記によれば、同じく冬の季語”枯野”とは異なり、枯れ切った様ではないそうだ。今しがた地に伏したばかりの草木があるかもしれない。自然にとって冬は地に還る季節だろうか。生きていて春にまた芽生えを迎えるものは多く、それは一度、地に還ってからまた出てくるという循環である。枯れ行く野に、自然循環システムの美(哲学・宗教的に換言すれば神的な働き)を見出した。
 選者の櫂未知子氏の評は次の通りである。”荒涼とした景を呈する「冬野」。もの皆枯れて寂しいものです。しかし、この作品はその景色を<うつくしき>としました。枯れたもの、土に還ったものを上品に描いていて見事です”

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