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【随筆】潜む虫歯

 息をする。食べる。話す。
 どれも、口を通じて行われる生命の働きである。

 我が妻は歯科医師である。結婚する前、私はある一本の虫歯を治療してもらった。
 ひょいひょいと慣れた手つきで、空洞を発見する装置の先端を私の歯にあてている。ある場所で音が大きくなる。きっと、そこが虫歯だ。治療のために入り口を削ってもらうと、ぽっかりと穴があいている。手鏡で患部を見せてくれるのだから、いやでも向き合わねばならない。
 嗚呼、恐ろしい。しかし、これほどの穴が開いているのに痛くないとは。歯と歯の間だから、何年も気付かなかったのだ。もう少し放っておいたら病巣が神経へ届き、痛みが出ていたのかもしれない。
 余談だが、今は、いわゆる銀歯ではなく、白いものを光で固めて歯を埋める。樹脂の類らしい。銀歯も、樹脂もどちらも良し悪しあるそうだが、私は白い詰め物のほうが具合良い。しかし、経年劣化で隙間から虫歯になる点はどちらも同じである。

 私は昔から一日三回は歯を磨いている。トラック運転手のときも、車中で磨くほど徹底していた。口をどこで濯ぐのか。いや、濯がないのである。ティッシュへ出せば唾液で綺麗になる。と信じるより他になかった。気分的には濯ぎたい。私同様、もしくはオフィスであっても、職場等の公共の場で悠長に歯磨きできない人も多々いるだろう。妻によれば、一日一回しっかり磨けば問題ないそうだ。回数ではなく質である。
 いずれにせよ、私の歯磨きはちゃんとしていたはずだ。歯にブラシをあてる角度は、歯の根元から上へ向かって鋭角にあてる。歯ブラシの毛の側面で磨いていくイメージである。大きく動かさず歯1-2本分の動きで磨いていく。

 しかし、なぜ虫歯になったのか。歯ブラシでは歯と歯の間の掃除に限界がある。よく考えればわかることだった。たしかに、とあるメーカーの極細毛歯ブラシは歯間へ容易に入るが、汚れを掻き出すには不十分かもしれない。というのも、歯の側面から毛が入ったところで、掻き出す方向の運動ではないからだ。つまり、歯間へ毛を挿しているだけである。もし、掻き出す方向へ運動させれば、一週間でボサボサな歯ブラシになるだろう。勿論それでも構わないが、お金もかかるし、どうもスマートではない。(とあるメーカーの極細毛歯ブラシは優れた商品であり、決して貶めるつもりはない)

 そこで、歯ブラシと共に、デンタルフロスが要請される。歯と歯の間に入れる糸(繊維の束)である。ちなみに、私はデンタルフロスメーカーの犬ではない。ただ、口腔衛生を保つために大変便利であると表明したいだけである。歯科医院に特別な利益があるわけでもない。私の主張は、何の利権にも属していない点を強調しておきたい。「真面目」に歯磨きしている方々に虫歯の悲劇が訪れないことを願うばかりである。

 デンタルフロスから糸を引き出し、プチリと切る。指に巻く。歯の間にぐぃっと押し込む。
 バチリ!
 初心者の頃は少し怖い。力加減もわからない。歯垢による炎症もあるため血も出るだろう。しかし、糸にからみつく汚れが目に見えるはずである。夜寝る前に一回でも通しておけば、翌朝の口内の状態が違ってくる。細菌の増殖数に桁違いの差が出ると思えるほどの体感である。科学的に実験調査したわけではないため、断定的なことはいえないが、私の実感としては「確かな違い」がある。

 かくして、私は一日一回就寝前にデンタルフロスをつかっている。おそらく、二日に一回でも十分ではないかとも思うが、ミュータンス菌がエナメル質を破壊しはじめるタイミングがいつなのかに拠るのだろう。

 最期に、デンタルフロスの知識を述べる。ワックス付きなしの二種類がある。ワックス付きは、その名の通り、滑りやすいため歯間へ入れやすく外しやすい。しかし妻曰く、ワックスなしのほうが汚れはより取れる、らしい。摩擦が大きいから、確かにそうだろう。
 私は歯と歯の間が狭すぎて、ワックスなしをつかうと外れなくなってしまう悲劇が起こりやすい。口の端から糸を垂らしながら、泣くことになる。横から抜こうにも、ささくれた繊維が残ってしまい不快感が続く。それを除去しようと、さらにフロスを突っ込み、もはや行くことも戻ることもできなくなる。最悪な状態である。私の場合は、歯科(妻)から、詰まったフロスを除去する専用器具を借りれば済む話なのだが、一般にはわざわざ歯医者へ行かねばならない。中年の男が鏡の前で呆然とする姿は滑稽だが、本人は深刻である。

 したがって、若い人や初心者はワックスありが良いだろう。また、コツとしては、フロスを水平に抜くのではなく、片側からテンションをかけて(歯の内側か外側のフロスに力を入れて)斜めに外す要領である。摩擦抵抗が減少するために有効である。

 以上、私の経験からデンタルフロスについて述べてきた。あくまで私の感想であり、普遍性ある真実とは限らない点はお含みおき願いたい。歯の隙間の大きい人は歯間ブラシのほうが良い等、各人の状態により最適解も異なってくるだろう。まずは歯科で歯の現状を診てもらうことも一考である。

 万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

 歯は一歳満たない頃から生え初め、一生付き合っていくものであるから大切にしたい。また、歯が綺麗であれば、そこから発せられる言葉も清らかに感じられはしないだろうか。

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