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【小説】僕と彼女の妥協点

「澄田くん、ちょっといいかな?」
 唐突に呼び出された僕は、その原因に頭を巡らせた。全く心当たりはなかったが、丸々とした課長の沈んだ面持ちから不吉な予感を覚えた。 
 まさか冬のボーナスが減らされるのか?

 それくらいの覚悟を持ち、手狭い会議室で相対すると、課長は伏し目がちに「プライベートなことに立ち入るようで申し訳ないのだが」と前置きをした。僕はごくっと唾を飲み、小さく頷いた。
「澄田くんは今、彼女と同棲しているんだってね」
 どこから漏れたのか。僕は思わず眉間に皺を寄せた。
「あ、最近は彼女って言わないのかな?」
「それは言いますが、僕は同棲というよりルームシェアをしているんです」
「友達ってことかい?」
「いえ、彼女です」
 課長は詭弁だと感じたのか、呆れたように溜息をついた。
「ちゃんと将来を見据えたお付き合いをしています」
「それなら同棲と世間では言うだろうし、仮に横文字にするならフライングだね」
 なるほど。僕はその言い回しに同意した。
「というのも、社長の耳に入ると雷が落ちるんだよ。知っての通り古風な考えの人だからね。仕事をやる以前の問題だとか、信用ならない奴だとか騒ぎ出すんだよ」
「つまり、別れろと?」
「いや、そうは言ってない」
「では、こっそりやれと?」
「まあ、そういうことだな」
 僕がにんまり口角を上げると、課長は短い首を更に縮め、何やら不安げに腕組みをした。
「心配ないですよ。バレたとしても後ろめたいことは何もないです。寧ろそんなことで仕事を干されたり、減給されたりしたら大問題ですよね? 僕が社長に一喝してやりますよ」
 課長は目を見開き、やれやれと首を横に振った。
「ですが、言うべき時が来るまで黙っています。僕も大人ですから。わざわざ火種になるようなことを言いません」
「頼むよ。最悪でも来年の二月まで」
「例のプロジェクトですか」
「澄田くんに抜けられたら困るよ」
「光栄です。週刊誌に載らないように気をつけますね」
 芸能人気取りの冗談に、課長のふっくらした頬はようやく緩んだ。
 

 その夜、いつもより遅く帰宅した。仕事の充実感で気分が良かった。マンションの玄関でオートロックを解除する際に、ふと “撮られていないか” 警戒をしてみたが、遠くで光る極小のフラッシュは、冴える夜空に身を隠していなかった。
「ただいま」
 出迎えはなく、彼女の笑い声が聞こえてきた。さすがに慣れたが、これぞ僕が、いや僕たちが、ルームシェアだと主張する理由である。
 何がそんなに面白いのか。くだらない話に違いない。
 共用のリビングに電気がついたまま、彼女は自室の中にいた。ここに引き連れてきた長年のお友達と一緒に。

 当初、僕は反対した。強い口調ではなかったが。“君のお友達” と皮肉った上で、その良く喋る下品な奴をはっきり嫌いだと伝えた。騙されたことだってあるのだから。話を盛り上げようと平気で嘘を言う奴である。一緒に暮らすなんて、いかに彼女が好きでも受け入れがたいことだった。
――それならルームシェアにしましょ
 思い返すと、にっこり笑う彼女に言いくるめられた気がする。金銭的な面では彼女の間借りと言った方が正しいが、一緒に暮らしたいと言い出したのは僕である。

 自室で笑い転げている彼女を呼び出さず、準備万端の風呂にさっさと入った。立ちのぼる香りは柑橘系の入浴剤である。心なしか湯がとろっとしていた。
 のんびり浸かっていると、「ゆっくりねー」と声が掛かり、折戸の半透明の窓に彼女の小柄な影が映った。お得意の鼻歌から察するに、連絡せず遅く帰ったことを怒っていなかった。

 湯上りには、少し贅沢な晩飯が用意されていた。彼女は先に食べることもあるが、その日は待っていたらしく二人で食べた。例のお友達は喋り倒して眠ったようだ。
「今日ねー、すっごいお洒落なカフェを見つけたの」
 上機嫌のきっかけはその発見だと知らされ、スマホで撮った写真をいくつも見せられた。大して興味はなかったが、僕から陽気に話題を掘り下げると、当然ながら今度一緒に行くことになった。


 ところが、翌朝の彼女は元気がなかった。青ざめた面持ちでキッチンに立っていたので、僕はおはようを言う前に「何かあった?」と訊いた。
「さっきゴミ捨てに行ってきたんだけど」
「いつも悪いね。ありがとう」
「最近、大きめのフードを被った怪しい人がいて、私が捨てに行くのを見てるというか、待ってる感じなの。なんか嫌だなあって思ったから、わざと時間をずらして行ったんだけど、今日もいて。ひやっと声を上げそうになった。私がゴミ捨て場のドアを開けたら後ろに立ってるんだよ。離れてはいたけど」
「男の人だよね?」
 彼女はこくんと頷いた。
「いくつくらいの人?」
「三十くらいかなあ。絶対にマンションの住人じゃなくて、もしかしたらアジア系の外国人かもしれない」
「この辺りも増えたよね外国の人」
 ふいに差別意識がもたげ、あまり言いすぎてはいけないと思った。
「たぶん私のゴミを漁ってるの。ストーカーかな? そういうことをするって聞いた」
 情報源は脅かすようなことを言いたがるお友達に違いない。すぐに影響される彼女は、物事を悪い方に捉えがちである。今回も自意識過剰ではないか。
 だが、仕方がない。
「次から僕が行くよ」
「ごめんね。しばらくの間そうしてほしい」
「大したことないよ。燃えるゴミは月曜と木曜でしょ?」
「うん。本当に助かる」
 僕を見上げる目はうるっと安堵に満ちていた。どこか頭を撫でてほしい様子だったので、僕はそれに応えた。


 四日後の月曜、ぴしっとしたシャツを彼女から受け取り、濃紺のスーツと同系色のコートに身を包むと、約束通りゴミ出しに向かった。そのまま出勤したら効率的だったが、すぐに報告した方が良いと考え、通勤バッグを持たなかった。
 まさか真剣に “見られていないか” 気にすることになるとは。
 あまりきょろきょろせず、警戒心を悟られないように目の端で周囲を伺った。すれ違った数人は面識があり、それぞれ気持ちのいい挨拶を返してくれた。凛とした空気の中、朝陽が低く差し込み、アルミ製のゴミ捨て場は眩しく光っていた。
 役目を終えると、マンションの中に引き返した。聞いていた話が嘘のように、行きも帰りも不審な影は見当たらなかった。

「今日は怪しい人がいなかったよ」
 気のせいでは? と受け取られない為の “今日は” である。
「えー、そうなんだ。やっぱり私を狙ってるのかな」
「出掛ける時はどうなの? 後を付けられたり見られていると感じたりしないの?」
「それはないんだよねー。今のところゴミ捨ての時だけ」
「とりあえず様子見だね。他に気になることがあったら教えて。ゴミ出しは当分僕がするから」
「頼りにしてる。ありがとう」


 次の木曜は、通勤バッグと共に前回より軽いゴミ袋を持った。月火水と三日分のゴミである。月曜の朝より一日分少ないことに今更気づき、これまでの彼女任せを反省した。至って平穏な朝を受け入れた。君の勘違いなどと言う必要はない。
 穏やかな気持ちでマンションの敷地を出ようとすると、道を挟んで斜向かいの駐車場に、黒いフードを被った男性が物憂げに立っていた。
 まさかあの人?
 あまりに離れすぎていた。恐らく彼は何かを待っているのだろう。仲間の車に乗せてもらうのではないか。毎朝同じに違いない。
 吹き出しそうになった時、「澄田さん」と意識の外から声が掛かった。そちらを向くと、見覚えのある同世代の女性が、甘い香りを放ちながら人懐っこい笑顔で近づいてきた。
 だが、名前が出てこない。
「二つ隣の平岡です」
 見透かしたように答えた。
「ああ、久しぶりですね。お元気ですか?」
「お陰様で娘も元気です。先日は奥様に大変お世話になりました」
 奥様!? 思わず裏返った声を出しそうになった。
「そうでしたか。すみません。何も聞いてなくて」
「娘の面倒を半日見てくださったんです。私の仕事が急に入っちゃって。ほんっとに助かりました」
「いえいえ、バイトのない日は家で暇をしていますから」
 言いながら、妻を謙遜するような自分に笑いがこみ上げてきた。
「私はシンママで両親も離れているので、助けてくださる人が周りにいないんです」
 シンママの意味に頭を巡らせた。すぐにシングルマザーのことだと理解して、過度な期待を抱かせてはいけないと思った。
「困ったことがあればお互い様です」
「これからもご迷惑をお掛けするかもしれませんが、どうか宜しくお願いします」
 そして、平岡さんは僕の手をすっと握った。手練の振る舞いか。やたらと距離感が近いだけか。帰国子女ならあり得そうだが、僕が嫌な気持ちにならないと見透かされたのかもしれない。
 これが無意識の浮気心か?
「それではまた」
「はい。またお話しましょう」
 僕はもう話をしない方がいいと思いながら、小さく頭を下げた。


 その日の午後、社内のトイレで洗った手を拭いていると、どすどすした足音がやってきて、僕と対する鏡の端に課長が映り込んだ。
「おお、澄田くん」
「お疲れ様です」
「誰かいるかい?」
 課長はトイレの奥を指差した。
「いえ、誰もいないです」
「シェアの調子はどうだい?」
 隠語のつもりか、ルームを略してきた。
「仲良くやっていますよ。最近僕がゴミ出しするようになったんです」
「おっ、早速尻に敷かれてるな」
 課長は何やら嬉しそうに笑った。
「実は面白いことがありまして」
 僕はそう切り出すと、彼女の勘違いを話した。誰かに言いたい気持ちがあった。彼女の悪口ではなく、些細な笑い話として、課長なら聞いてくれると思った。
「澄田くん」
「少しポンコツさんで可愛いんですよ」
「それは駆け引きだよ」
「駆け引き?」
 僕は眉をひそめた。
「結果的に君は、毎度ゴミ捨てに行くことになった。しかも、今まで悪かったなどと思っている」
 課長はいつになく自信たっぷりに眉を上げた。僕は苦笑いを浮かべた。
「もしや課長、ゴミ出しは女性の仕事だと思っていますか?」
「自慢じゃないが、私は一度も行ったことがない」
「古いですねー」
 僕は課長を真似て眉を上げた。すると、今度は苦笑いを返された。
「上手く行っているなら、男がだらしなくても良いと思うが、人生の先輩として大事なことを言っておく」
「なんでしょう?」
「女の魅力に注意せよ」
 心なしか例の感触が手によみがえった。
「おっしゃるとおりです」
「決まったな」
「かっこいいです」
「トイレを猛烈に我慢しているのだが」
「どうぞ、ずばっと決めてきてください」
 僕は片手を横に広げ、そわそわと腹を揺らす課長をトイレの奥に促した。


 次の月曜も、そのまま通勤するつもりでゴミ袋を持った。彼女はキッチンで掃除をしていたが、お友達が彼女の部屋の中で何かを言っていた。
 一人乗り合わせたエレベーターを降り、マンションの玄関を出ると、咄嗟に肩をすぼめた。ゴミ捨て場の方に曲がった。すると、黒いダウンコートを着た平岡さんが幼い娘を連れて立っていた。一段と冷え込んだ朝、まるで僕を待っていたかのように。
 彼女に似た勘違いかもしれないが、ぎょっと体が固まった。
「澄田さん、おはようございます」
「あ、どうも」
 僕は目を合わせず、手を繋ぐ親子の前を通過した。
「いってらっしゃい。お仕事がんばってくださいね」
 僕は僅かに頭を下げ、急いでいるように早足で立ち去った。

 そして、通勤する電車の中でぼんやり考えた。あの娘を半日預かったと、なぜ彼女は僕に言わなかったのか。
 別に構わないが、何やら不自然だった。日頃交流があるはずだった。そんな話も彼女から聞いたことがなかった。
――それは駆け引きだよ
 課長の言葉を思い返した。


 年末が押し迫り、その日の仕事はかなり忙しかった。笑っている余裕はなかったが、情報を共有しなかった部下に対して、「なぜシェアしないんだ。シェアが大事だろ」と憤っている課長は、なかなか面白かった。

 夕方、九時過ぎるかも、と彼女にメッセージを送った。返信は労いの言葉だった。

 実際に帰宅したのは十時近くだった。いつも通りリビングに電気がついていたが、彼女がいなかったので、お友達の声が漏れてくる引き戸をノックした。
「おーい、開けるよー」
 返事を待たず、そっと開けると、程よく暖房が利いた中で、パジャマ姿の彼女はテーブルに突っ伏して眠っていた。それでも喋り続けるお友達の四角い顔は、くるくる切り替わり、相変わらず見ているだけで疲れてくる。僕はリモコンを手に取り、お友達を眠らせた。

 用意してあった食事を電子レンジで温め、一人で食べていると、カーディガンを羽織った彼女が起きてきた。
「ごめんね。寝落ちしちゃった」
「食事ありがとう。ただ、全部は食べられないと思う」
「もう遅いから無理しなくていいよ」
 彼女はとろんとした目で僕の向かいに座った。
「あのさ、二つ隣の平岡さんってとてもいい人だよね。ゴミ出しの時に毎回会うようになったんだ」
 彼女の目がはっと覚醒した。
「いい人なんだけど、ちょっと怪しいんだよねー」
「何が怪しいの?」
「お金がないって言う割に派手な生活をしてるし、人当たりが良すぎるっていうか、裏がある感じ」
 人当たりの良さに同意したが、「そうなんだね」と惚けたのは、話題を転じる為だった。彼女の機嫌が悪くならないように、“いい人に見えた” というだけで十分だった。


 三日後の朝、彼女より遅く起きた僕は、一つに纏めてあったゴミ袋がなくなっていることに気づいた。
「あれれ?」
 僕は大袈裟に驚いてみせた。
「今朝はもう出してきちゃった。コンビニに行く用があったの」
 彼女の面持ちは晴れやかだった。
「怪しい人はいなかった?」
「大丈夫だった。しばらく行かなかったお陰だと思う」
「それは良かった」
 僕はしめしめと笑った。正直、ゴミ出しくらいお安い御用であるが。

 さて、お友達をゴミ出しする日はいつだろう。
 やはり僕とは毛並みが合わない。僕より面白いことを言って彼女が大笑いするのも腹が立つ。嫉妬を含んでいるかもしれないが、僕はピアノソナタでも聴きながら、二人だけの生活を優雅に過ごしたいのである。


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