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【小説】喜劇のやくそく

真子さんへ

 まず、お聞きしたいことがあります。小学生か中学生の頃、児童劇団で演じた役の中に、「お父さんに仕事をください」という台詞はありましたか? 
 僕は、全く覚えていないのですが、かつて賢一先生から聞いた話では、真子さんか京子さんのどちらかが、舞台上で発した台詞のようです。

「娘に言われて、尻に火が付いたんだよ」
 笑いながら、そのように語ってくれたエピソードは、起業のきっかけです。冗談かもしれませんが、件の悲しげな台詞は、賢一先生の心に強く残った一言に違いありません。
「幡谷先生に、してやられたと思ったね」

 脚本を書いた幡谷先生は――もちろん、僕の祖父です。賢一先生が汲み取ったメッセージは、もう一つの筋書きとして、本当に隠されていたでしょうか?
 今や、その謎を解き明かすことはできず、とても残念に思います。祖父と賢一先生が語り合う場に、僕も同席したかったです。

 先日、亡き祖父に関する思い出を執筆してほしい、と依頼がありました。父を介してのことで、詳しい事情は良く分かりませんでしたが、演劇の愛好家たちによる会報誌に、祖父の足跡が掲載される、と聞きました。恐らく求められているのは、その追録としての家族の声というか、祖父の人となりが窺い知れるエッセイのような小話でしょう。

 執筆する上で、懐かしいことを色々と思い返したので、この手紙に繋がりました。
 真子さんは、三十期ですよね? 僕は、二十八期生として劇団に入りました。二つ年上の京子さんと同期です。

 最初のレッスンは、小学二年生の時でした。かれこれ三十年も前ですが、公民館の一室で行われたレッスン風景は、今でも記憶に残っています。規則正しく並んだ机の最前列は、生徒の方を向いて座る先生たちの席でした。
 僕は、子供ながらに気を遣い、周りに合わせることを意識しました。先生の問い掛けに対して、手を挙げる子が多ければ手を挙げて、逆に少なければ手を挙げませんでした。隣に座る同学年の子――幹彦くんです。覚えていますか? 彼も僕と同じ様子でした。すると、先生たちの中で最年長の祖父に声を掛けられました。手を小さく上げ下げする剽軽な仕草を交えて。
「お猿さんのように手を挙げなくていいよ」

 僕にとって、衝撃的な一言でした。学校では、とにかく手を挙げることが推奨されていたのに、手を挙げなくていい、無理に合わせなくいい、そのように教えられたのですから。

 それから一年弱の時を経て、僕は五百席程の劇場で初舞台を迎えました。舞踏会で踊る最初の演技に備えて、舞台袖で待機している時、京子さんから緊張しない魔法を教えてもらいました。
「指で掌に人という字を書いて、飲み込むんだよ」
 京子さんも緊張していたはずなのに、頼もしいお姉さんでした。大勢いた同期の中で、踊る相手役が京子さんだった偶然に、今はただ驚いています。不思議なご縁ですね。

 蓮は、僕の跡を追うように、二十九期で入団しました。僕たち兄弟は、何をするのも一緒でしたから。真子さんと京子さんも、同じだったように思います。

 劇団では、好奇心のアンテナを張り、人から学ぶことを教わりました。猿真似ではなく、学ぶ。そして、考える。脚本のある演劇であっても、その表現に正解などありませんでした。児童劇とはいえ、演目は多種多様でしたが、脚本を尊重して、悪目立ちしない限り、どう演じても自由でした。

 真子さんも、次第に演劇の奥深さに惹かれていったことでしょう。

 人の情緒を演じることは、人の気持ちを理解する力を培います。人を思いやることに繋がります。
 それ故か、劇団内でイジメはなかったと思いませんか? 男女の垣根なく、子供たちの仲は良かったですね。レッスン場は、常に和やかな雰囲気でした。

 一方で、発表会の演目は、観客の涙を誘うような物語が多く、喜劇に分類される作品は少なかったと思います。その理由について、脚本を手掛けていた祖父は、こんなことを言っていました。
「悲劇よりも、喜劇の方が難しいんだよ」
 
 そして、中学二年生になった僕は、卒団前の最後の舞台で、主役に抜擢されました。用意されていた脚本は、人情味のある喜劇でした。
 悪戯好きの雷さん、つまり幼稚な神様が、人間たちに雷を落とされます。タイトルは、“雷のやくそく” です。
 真子さんは、マーサという名前のお母さん役でした。もちろん、覚えていますよね? 本番の舞台で、台詞を間違えてしまったのですから。たしか、違う場面で言うべき台詞を、先に言ってしまったのです。
 あの時、偶然目の前にいた僕は、咄嗟のアドリブでフォローしました。
「マーサ、何を言っているんだい? それは違うよ」
「あら私、何を言っているのかしら」
「はは、マーサがおかしなこと言ってるぅ」
 そんな遣り取りで、事なきを得ました。
 無事に大団円を迎えたその舞台は、場内が時折笑いの渦に包まれて、大成功と言える手応えがありました。

 その年は、同じ演目でもう一度発表会がありましたね。真子さんの中でも、ほろ苦い思い出になっているでしょうか?
 自信を深めて臨んだ二度目は、殆ど笑いが起こりませんでした。終始冷めた反応に感じられました。もしかすると、団員たちの演技に良くない変化があったのかもしれませんが、見る人よって、或いは見方によって、「こんなにも違うんだ!」と、僕は驚きました。同時に、演劇は舞台上だけで成立しないことを実感しました。
 観客を含むその場のすべてが一つの作品であり、それは舞台劇の醍醐味に違いありません。

 僕は、中学二年生で卒団という決まりを歯痒く思い、卒団後もどこかで演劇を続けたい気持ちはありましたが――
 言い訳は、通学に時間を要する学校に進学したことです。習い事として継続できず、やがて別のあれこれに熱を上げるようになりました。
 随分長い間、真子さんと会う機会はなかったですね。

 人生とは、分かれ道の連続です。

 かの喜劇王、チャーリー・チャップリンは、こんな言葉を残しています。
「人生は、クロースアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇だ。(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)」

 絶望的に思える悲劇も、後に振り返れば、喜劇に変わることがあります。自分という主役を、観客目線で見れば、思い悩んでいる姿は滑稽に映ることがあります。
 もちろん、人生に脚本は用意されていません。人生を悲劇に落とすことは容易いです。その逆は演じるよりも難しく、今という瞬間をなかなか観客目線で見ることはできません。
 ですが、祖父と賢一先生――二人が望む僕たちの人生の筋書きは、笑顔あふれる喜劇でしょう。見事なまでのハッピーエンドでしょう。

 僕は、四年前に、一区切りのハッピーエンドを目の当たりにしました。蓮と真子さんの結婚式です。夢のような光景でした。舞台のワンシーンを見ているようでした。
 ジューンブライドの花嫁姿、とても美しかったです。何も演じない素のままの真子さんが、ヒロインに相応しかったです。

 心惜しいのは、祖父に見せてあげられなかったことですが、僕は死後の世界を信じています。賢一先生が饒舌にお伝えしていることでしょう。嬉しそうに笑う二人の顔が、目に浮かぶようです。

 蓮と真子さんの歩むそれぞれの道は、中学時代に分かれてから、巡り巡って再び交差しました。運命のようではありますが、賢一先生が起業していなければ、僕たち兄弟がお世話になることはなく、もしかすると、別れたままの人生だったかもしれません。
 もっと言うと、祖父が件の台詞を書いていなければ――

 そして、僕たちには “続き” があります。第二章、三章かもしれませんが、すでに幕は開いています。マーサというお母さん役だった真子さんは、本当のお母さんになりました。僕は、姪っ子のいる紛れもないおじさんです。
 もう若くないですから、何か過ちを犯しそうになった時、注意してくれる人は減りました。僕と真子さんも、お互いにまだ言いづらいところがあるように思います。

 大事なのは、劇団で培った声を出す勇気と温かい思いやりです。言うべき時に、声を掛け合えたら素敵ですね。僕は、またあの言葉を口にするかもしれません。
 何を言っているんだい? それは違うよ。

 是非、真子さんも、違うと思ったことは言ってくださいね。雷を落としてもらっても構わないです。僕は、“喜劇” に変えてみせますから。
 二十五年前のアドリブのお返し、お待ちしています。

                 まだまだ健在な、かつての主役より 

 

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