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【小説】素足でゆく

 春。されど衣更着きさらぎ――
 如月とも書くそれは、陰暦二月の異称だ。春は例年通り暦の上だけで、更に着込むような寒さが続いていた。

 そんな折、父が電話をかけてきた。曰く、大事な話があるとのこと。要するに、実家へ来てほしいという趣旨だった。混み合わない午後七時以降であっても、車で片道四十分ほどかかる。
「それなら明日の夜ね」
「あ、すまん。明後日にしてくれ」
「ええ?」
「陽平も来るんだ。二人に言っておく必要がある」
「あのね、私忙しいの」
「おう、それは分かっているぞ。仕事も毎日大変だよな。だけど可能であれば、明後日にしてほしい」
「・・・分かったよ」
 その実、明後日でも一向に構わなかった。暇と若さを持て余した生活を変えようと、年初にインストールしたスケジュール帳は、結局手つかずのまま雪に埋もれたような状態だ。

 私の春はどこにあるのか。

 見つかるはずもない実家へ帰ると、次兄の陽平が炬燵こたつに半身を入れて寝転んでいた。その傍らにいた子犬のサルバトール、通称サトルは、私に向かってキャンと鳴いた。
「おー、明日香。正月ぶりだな」
 長兄が呼ばれない理由から、父の話は凡そ推測できた。財産分与に関することを言いだして、あの嫁には一銭もやらないなどと、またいきり立つのだろう。

 炬燵を挟んで父と向かい合った兄も、やはり兄妹、同じことを思ったようだ。
「なんだかもったいぶっているが、宝くじでも当たったのか?」
 私の正面には誰もいない。父の怪訝そうな顔に視線を移した。
「その通りだが・・・」
「まじかよ」
「不可解なのは、なぜ世間に漏れているのか、ということだ」
 私は兄を平静に一瞥いちべつした。
「知っていたわけじゃないぞ。そんな気がしただけだ」
「いや、どうやら漏れている。怪しいのは銀行員だ」
「何を根拠にそう思う?」
 すると、父は取り出したスマホをぎこちなく操作した。
「え? いつの間に!」
 思わずそう言った私にとって、それは衝撃的な光景だった。つい最近まで電話と手紙しか通信手段を持たず、今でも複数の新聞を購読している父が、まさかのスマホ――
 そして、マッチングアプリと言いだした。
「は!? 何をやっているんだよ親父!」
「何ってお前、婚活だ」
「止めろ! 出会い系とか恥ずかしいだろ」
「お前、意外に古いなあ。今はこういうアプリを使って彼女を探すんだぞ。いたってスタンダード」
 私は必死に笑いをかみ殺した。
「それは若い人の話だろ。親父はもう六十だぞ? 客観的にただの色ボケだ」
「恐らくは、そう思っている女性も少なからずいることだろう。故に、なかなかマッチングしない」
「とう、ぜん、だ!」
「しかし、宝くじに当たった途端、見よ、女性の方からこれだけアプローチがあった」
 そんな数字は目に入らなかった。見せられたスマホの画面には、父のきりっとした決め顔が映し出されていたのだから。
「あ、一つ言っておかなければならないのが・・・」
 兄は眉をしかめた。
「父さんはな、今でも母さんを愛している」
 そう言ってもらえる母を羨ましく思った。この世を去ってから十二年が経つ。
「母さんへの愛は永遠だ。しかし、どうにも寂しい」
 兄は何も言い返さなかった。部屋の隅でうずくまるサトルは何かを察したのか、悲しげにクーンと鳴いた。
「無論、金目当てで寄ってくる輩は相手にしない。というか、宝くじが当たる以前に・・・これは後で孝介にも伝えるが、もうこの人と結婚しようと決めてある」
 そして、スマホに映る女性の写真を私たちに見せた。添えられたプロフィールによれば、県内に住む四十六歳とのこと。
「は!? もっと真面まともな写真を見せろよ」
 私は同意した。着物の似合いそうな和風美人を写したそれは、明らかにデジタル加工が施されていたのだから。十中八九、実物とは大きく異なる。
「これしかないぞ」
「会った時に写真くらい撮れよ」
「いや、まだ会ったことはない」
 兄がにやりと笑い、私はぷっと吹き出してしまった。
「人の恋路を笑っちゃいけない。そんな風に育てた覚えはないぞ」
「だけど親父、さすがに会ったことのない人とは結婚できない」
「何を言うか。母さんとは会う前から結婚が決まっていた」
「そんな昔のこと。だいたい許嫁いいなずけとは話が違うだろ」
「いや、直感だ。許嫁と聞くと、なんだか不自由で可哀想に思われがちだが、母さんの写真を見た時から、この人に違いないとね、びびっときたんだ。正しかったよな?」
 証人の私は頷いた。両親は偽りなく愛し合っていた。
「今回もきっと正しいだろう。いよいよ来週末だ。MKさんと会う」
「名前も知らないのかよ」
「よし、いい機会だ。恥を忍んで相談がある。父さんは恋愛というか、女性を口説くなどの経験がない」
「おー、そうでちゅか。困ったでちゅね」
「母さんの時とは違って、今回は口説かねばならないだろう。どうすればいい?」
 ど真剣な父と半笑いの兄がじっと見つめ合った。私が兄であれば、もう一瞬で耐えられない。
「親父、来週会う人で間違いないか?」
「無論。ファイナルアンサーだ」
「もしも上手くいかなかったら、このアプリは止めてくれ」
「退路を断てと? 素晴らしい提案だ。丸裸の覚悟でゆく」
「せめて素足に留めてくれ。どっかで食事するんだろ?」
「そうだ。サイゼとか牛丼屋じゃないぞ」
「きっと女性は、食事が終わったくらいでトイレに立つ」
「なるほど」
「その時、何をすべきか分かるだろ?」
 私が見た限り、父は分からない様子だった。
「ああ、あれか」
「言わなくて大丈夫か?」
「愚問。ノープロブレムだ」
 なぜ最後の最後で見栄を張るのか。私はそんな父を愛おしく思った。
「ところで親父、宝くじはいくら当たったんだよ?」
「聞きたいか?」
「いい加減にしろ」
 すると、父はしたり顔で両手を広げた。
「十?」
「十万だ。誰にも言うな」
「ふざけたオチだ」
「本当だ。通帳見るか?」
「さ、帰るぞー」
 そう言って立ち上がった兄は、丸めてあった紺色のダウンジャケットに袖を通した。

 父と二人になった私は、すぐに帰りづらくなった。耳に残っていたのは、どうにも寂しい、という父の言葉――
 されど、九時半ごろには帰宅している必要があった。余裕を持って、化粧直しをして、万全の状態でパソコンの前に座りたかった。背景になる一人住まいの小部屋も整えておかなければならない。自堕落な様子が映り込まないように。
「お父さん、私そろそろ帰るね」
「お、そうか。気をつけて帰れよ」
 私は気づいていた。今日は泊っていくと突然言い出しても、対応できるように準備してあることを。
 車の鍵を手に一瞬迷った。スマホでもビデオ通話は可能だ。兄はそれを知ったら止めろと怒るだろうか。

「グッドラック」
 見送りに出てきた父はそう言った。恐らく漠然と、私の未来に幸があることを願って。頑張れよ、そんな意味合い。ぽんと背中を押してくれた。
 父なら応援してくれるだろう。ネットで知り合った人と恋に落ちたとしても。

 その日も、寿人さんとの会話は楽しかった。共通の趣味は音楽鑑賞で、ジャンルは主にUKロックだ。過激な曲も少なくない。されど、一つ年上の彼は実に物静かな人。育ちの良さを思わせる喋り口。かつてはピアノを習っていたそうだ。洒落た観葉植物のある部屋で椅子に座り、あからさまな部屋着ではなく、セーターを大概着ている。私への好意がひしひしと伝わってくる。
 定期的にビデオ通話を始めてから凡そ三か月――
 ディスプレイ越しに見る限り非の打ちどころのない彼に対して、一つの疑念が渦巻いていた。

 実際に会う気はあるのか?

 同県に住んでいる巡り合わせに驚いてから、一向に進展が見られない。どこかで会いたいですね、と私が話を振った時、彼は巧みにはぐらかした。
 会う気がないのなら、正直この関係はきっかけのまま終わりにしたい。彼がオンライン上の恋愛だと捉え、まだ何も始まっていない現状で満足しているのなら、私はAIやアニメのキャラクターと変わりない。仮想空間の恋人だ。天気もなければ季節もない世界に閉じ込められるようなものだ。
 会ったことのない人は、ある意味この世に存在していない。テレビに映る有名人も同様だ。会えなければ、いないに等しい。通信手段の劇的な進歩によって、仮想と現実の境は曖昧になった。

 たしかな現実へ。踏み越える為の第一歩――
 春が遠のくことを恐れていては、寿人さんの本心を聞き出せない。今は会えない事情があるのかもしれない。

 父でさえ果敢に前へ進もうとしているではないか。

 踏み込んだ夜は、風が殊更強かった。
「今週末の土日、どちらか会えませんか?」
 寿人さんは少し間を置いて何か答えた。その瞬間、窓の外でごうっと吹き荒れる音がした。
「ごめんなさい。何ですか?」
 寿人さんは口をつぐんだ。言い難いことがあるのは明らかだった。
「お忙しいですか?」
「そんなことないです。空いています」
「それなら近場で、是非お会いしてみたいです」
「すみません。ずっと隠していた秘密があります。すぐに言ったら幻滅されると思ったので、なるべく信頼関係を築いてからお伝えしようと思ったのですが、もう明日香さんに言わないといけませんね。いつまでも逃げてちゃだめですね」
 意を決した顔――
 通信先を見つめながら、寿人さんという人はたしかに実在すると感じた。
「僕は、足がないんです」
 そう打ち明けると、自嘲するように笑った。ディスプレイに映るその姿は、いつも通り胸部から上。下半身は見えない。見たことがない。彼は通信中に立ち上がったことがなかった。
「それに、恋愛経験もないと言っていいです。もし、こんな僕でも会っていただけるならば、大変申し訳ありませんが、我が家の近くに来ていただけませんか?」
 躊躇ためらってはいけないと思った。
「はい。お伺いいたします」
 寿人さんは恭しく頭を下げた。

 されど、恋人としてお付き合いするとなれば、結婚を見据えた上でしっかり考えなければならない。相手の足りない部分を補えるか否か。乗り越えてゆく生き様はまさに理想だ。仮想と同様だ。安易な挑戦に酔いしれるべきではない。現実は異なるのだから。
 その夜は、明け方まで寝つけなかった。

 そして、ついに迎えた会う約束の日は、麗らかな日和に恵まれた。指定された喫茶店は、馴染なじみ深い町名の住所だった。カーナビに入力すると、実家と逆方向ながら似たような距離だった。
 かの人に会う父と、もしや同じ喫茶店で遭遇そうぐうするだろうか。
 まず起こり得ないと思い直した。父は夕方に会うと言っていた。

 つまり、先駆ける私。素のままを意識して。

 駐車場には随分早く到着した。店の玄関の見える場所で車内にしばらく留まった。日差しが辺りを明るく照らして、店の大きな窓にはブラインドが下りていた。
 スマホから視線を上げた時、その窓の前にチェスターコートを着た若い男性が立っていた。目を細めて見ると、それは寿人さんに違いなかった。色白のあっさりした顔、後頭部に丸みのある髪形――されど、足があった。二本とも。淡い色合いのジーンズを穿いて。
 義足かもしれない。
 咄嗟にそう思ったのは、義足のモデルとして活動する女性の動画を先日見たからだ。立ち姿も歩き方も、本物の足を持つモデルと変わりなく美しかった。感銘を受けた。
 まだ約束の八分前。手鏡で前髪を確認してから車を降りた。微笑みながら寿人さんに近づくと、彼は恥ずかしそうに頭を下げた。
「はじめまして。明日香です」
「今日はわざわざ有難うございます。はじめまして、ですね。なんだか不思議な感じがします」
 気になる足を見ないようにした。てっきり車椅子だと思っていた。わざと平たい靴を履いてきた私より、寿人さんは五センチほど身長が高かった。
「じゃあ、入りましょうか」
 体の軸が少し右に傾いているような、違和感のある歩き方だった。
 二十席ほどある店内は、渋い大人の雰囲気が漂っていた。注文する品は、向かい合って席についてからメニュー表を見て選んだ。良く利用するらしい寿人さんにおすすめを聞くと、イチゴタルトとレアチーズケーキの二つを挙げてくれた。そして、もう一つ聞きたかったことは――
 なぜコートを脱がないのですか?
 脱げない事情があると察して、体のことではなく、楽しい話を心がけようと思った。
「今日はいい天気になりましたね」
「いやあ本当に、遠いところまで来ていただき、有難うございます」
「いえいえ、そんなに遠くなかったですよ。実家に帰る距離とほぼ同じでした」
「そうでしたか。実は僕、二年前まで東京で暮らしていたので、恥ずかしながら免許がないんですよ」
「免許?」
 そう聞き返した私の声は裏返った。
「はい、車の。東京だと使わないんですよ。ここだと足がなくて困っているんですが、なかなか教習所に通う時間がなくて。学生時代に取っておけば良かったと後悔しています」
「足はあるのですね?」
「いえ、ですから、ないんです」
 その真剣な顔が脳裏に浮かぶ父と重なり、私はぷっと吹き出してしまった。
「おかしいですよね。いい年して」
「ごめんなさい。私、足がないって、誤解していたから」
「誤解ですか。すみません。きっと僕の言い方が悪かったんですね」
 私は遠慮なく頷いた。

 寿人さんの素を垣間見た所為せいか、私は良く喋った。通信していた時よりずっと。緊張感が和らいでいた。寿人さんはいかにも楽しそうに応じてくれた。やはり上品に。ゆったりと。大きな声を出すこともなく。

 ふと腕時計を見ると、いつの間にか二時間が経っていた。トイレに立ちたいと思った。すでに、おかわりした珈琲も飲み終わった状態――
 その時、何をすべきか分かるだろ?
 父に対する兄の問いかけを思い出した。されど、寿人さんを試すつもりはなく、おごってもらおうなどと考えていなかった。
「あの、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「はい。この先の右側にあります」
 席を一旦離れる時、机の下に視線を落とすと、ジーンズと靴の隙間から寿人さんの足首が覗いていた。

「お待たせしました」
「そろそろ出ますか?」
「そうですね。二時間以上いますし」
 すると、寿人さんは背後に隠していた右手を差し出した。ケーキの白い小箱を持って。
「イチゴタルトのお土産用です。それとレアチーズケーキ。これもやっぱり食べてほしいので」
「わあ、嬉しいです。有難うございます」
 寿人さんは満足げに笑った。理想的にスマートだった。
 されど、店を出る直前、私は笑いをこらえた。お土産用を含むすべてが、割り勘になったのだから。

 父も素で同じことをやりそうだ。

「そういえば、コートを脱がなかったのはなぜですか?」
「あ、忘れていました。実は緊張していたので」
 寿人さんはそう言うと、まだ空気の冷たい店の外でコートを脱いだ。いたずらに慌てるその姿が、私には愛おしく映った。


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