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【小説】逆転彦星

 雨上がりの夜、女は薄いカーテンを引いて畳の部屋に向き直り、ギターを爪弾く男に声をかけた。
「そろそろ七夕ね」
「七夕? なんだか懐かしいなあ」
 急に何を言い出すのだろう。男はそう思いながら、横に座った女を片腕で抱き寄せた。
「織姫と彦星って一年に一度しか会えないんでしょう?」
「切ないことだが、きっと僕たちとは時間の概念が大きく違うんだよ。彼らは長生きだから、僕らにとっての一年が一週間くらいの感覚かもね」
「週一かあ・・・。ちょっとした遠距離恋愛ね」
 首を横に振りかけた男は、恋愛ではないと知っていた。織姫と彦星は夫婦である。だが、それを言わずに微笑み返して、遠距離は辛いなどと惚けたことを言った。
「私達は一緒に暮らし始めてから、会わなかった日はないね」
「君に会わない日なんて考えられないよ」
 時折こうして甘い言葉を吐く男は、三十路を迎えた売れないミュージシャンである。
「もう二年だね」
「まだ二年だよ。これから先、愛は永遠に続くんだから」
 もう、と言われたくなかった。結婚を急かされているようで。
 片や嬉しそうに笑った女は、壁掛けのカレンダーに目を向けた。互いのスケジュールが日付ごとに書き込まれている。
「七日はバイトがないでしょう?」
「急に頼まれない限りね。ないと思うよ」
「私も休みなんだけどさ」
「どこか行く?」
 そう訊いてはみたものの・・・、と男は思った。遠出をするような金はなかった。
「初めて別行動をしてみない? 織姫と彦星の逆。一年に一度の会わない日」
 男は大げさに頭を抱えた。
「会わない日なんて考えられないからこそ、新しい発見があるかもしれない」
「会いたい気持ちを再確認するだけだよ」
「それもいいじゃない。切ない曲ができそうね」
 応じるしかない一言。男は自信なさげに笑ったが、安い蛍光灯を見上げて、何かいいきっかけになることを漠然と期待した。


 女が友達のところに行くと言って家を出たのは、六日の夕刻である。茜色の空が美しかった。
 男は余計な詮索をせず、きらきらと流れる天の川をイメージして曲作りに取り組んだ。帰ってきた彼女を驚かせようと思った。だが、意気込むほど上手く行かないのは毎度のことであり、その夜は溜め息ばかりが漏れた。
 話す人のいない寂しさは、普段気にならない戸締まりを確認させた。ふと思い浮かんだ顔は、一人暮らしの母である。しばらく会っていなかった。何もいい報告ができないことを理由に電話すらしていなかった。
 元気だよ。そう伝えるだけで十分なはずだが、実にくだらないプライドが邪魔をして、男には乗り越えがたい壁になっていた。


 翌日の七夕、男は蒸し暑さで目覚めた。カーテンの裾から日差しが漏れ入り、時計の針は十時過ぎを指していた。起き上がると、老いぼれた扇風機を回した。ギターを手にする気にならず、何をしようか考えてみたが、金を使わない娯楽など限られている。
 飯を食ったら散歩でもするか・・・
 エアコンのない家にいるよりも、日陰であれば外の方が涼しい。男は有意義に過ごすことを諦めた。暇に慣れているが故の潔さである。

 男は節約術に長けて家庭料理も得意であるが、朝昼兼用の食事は簡単に済ませた。長めの髪を整えて短パンからジーンズに履き替えた。顔は無精髭のまま外に出ると、近所の本屋に向かって歩き出した。快適な空間を渡り歩く毎度の散歩コースである。

 本屋に着いた男は、まずエアコンの風が直接当たる場所で立ち止まった。常連らしくどこが最適かを心得ている。全く興味のない旅行雑誌をぱらぱらと捲り、一息ついてから店内をゆったり回った。
 すると、平日の真っ昼間にも関わらず、漫画コーナーに大きな眼鏡をかけた細身の少年がいた。たどたどしい不審な動きをして、コミックを一冊持ったままレジから遠ざかった。年のほどは小学校高学年である。肩にかけた四角い鞄の口が大きく開いていた。
 鞄の中に入れるタイミングを伺っているのだろう・・・
 そう察した男の視線に、少年は気づいておののいた。咄嗟に持っていたコミックを平積みされた参考書の上に置き、早足でレジの前を通過して店の外に出た。
「おい少年!」
 後を追った男が声をかけると、少年は青ざめた顔で首を横に振った。
「何も盗ってませんよ」
「そうだな。ちゃんと見ていたよ」
 ほっと息を吐いた少年は、小さく頭を下げて立ち去ろうとした。
「ちょっと待て。君は暇か?」
「いえ忙しいです」
「嘘をつくな。学校はどうした?」
 少年は男の顔をまじまじと、そして全身をくまなく見た。眼鏡のレンズがきらりと光った。
「なんだ? お兄さんは善良な市民だぞ」
「まあ、サボりたい時ってありますよね。僕もそんな感じです」
 男は笑わずにはいられなかった。少年も釣られたように笑って無邪気な明るさを取り戻した。
「よし、お兄さんがアイスをおごってやる」
「ハーゲンダッツですか?」
「それは特別な日に食べるやつだ」
「今日は七夕ですよ?」
 男が肩をすくめると、少年は深々と頭を下げて反論を封じた。

 コンビニに入った二人は、まるで年の離れた兄弟、或いは近しい親戚のようにアイスを選んだ。目移りする少年は、値段が安いアイスなら二つでもいいか訊いた。
「駄目だ。男は一つに決めなきゃいけない」
「なんでですか?」
「なぜって君、責任を負うためさ。二つ三つを選ぶ癖をつけてしまうと、大事な時に覚悟を決められなかったり、卑怯な逃げ道を作ったり、こっちが駄目だったらあっちっていう、不誠実な行動になるんだよ。選んだアイスが不味かったら君の責任。だから真剣に考えるんだ」
「・・・じゃあ、やっぱりハーゲンダッツのこれにします」
「よし、それでこそ男だ。僕も自分の責任で同じものにする」
 レジで待つ店員は、その様子を微笑ましそうに見つめていた。

「近くにいい場所があるんだ」
 コンビニを出ると、男は少年を先導してサイクリングロードのある河原までやって来た。そして大きな橋の下、日陰になっている土手の斜面に並んで座った。吹き抜ける風は心地よく、地上の川はさらさらと流れていた。
「ちょうど食べごろだぞ」
 カップ入りのアイスクリームは、ほどよく溶けて食べやすかった。
「めっちゃ美味しいですね」
「高いだけのことはあるが、きっと一人で食べたらそうでもない」
「分かります。僕は家に帰っても夜遅くまで一人だから」
「そうか。少年も色々辛いことがあるな」
 少年は悲しげに笑うと、押し黙ってアイスクリームを口に運んだ。ゆっくり一口ずつ味わうように。しばらく沈黙が続いた。

「先輩」
 少年が唐突にそう呼びかけると、男は優しく目配せをした。何でも言ってごらんよと。
「夢も一つに決めないと駄目ですか?」
「夢がいくつもあるのかい?」
「いえ、ないんです」
「ないのか。別になくていいだろ」
 少年は眼鏡越しに目をきょとんとさせた。
「夢は愛と同じで自然にできるものだよ。必死に探して見つけるものじゃないし、探して見つけたものならば、それは偽り、嘘の目標だよ。学校で書かせようとするんだろ? 夢は何ですかって。僕もあれは苦手だったな。大人が期待していることを書かなきゃいけないしね」
 すると、少年は鞄の中から細長い空色の紙を取り出した。穴の開いた最上部にこよりがついている。
「七夕の短冊か。願い事だね」
「今年は書く気にならなかったので、今日のイベントはサボりです」
「野望という言葉を知っているかい? 野原の野に望むと書く。夢に似ているが、ざっくり言うと、野望は人に言えない夢。美化していない、つまり恥ずかしいままの本心だ。無理やり立派な夢なんて掲げようとして、自分に嘘をつくから息苦しくなる。夢がなければ野望でいい。自分の恥ずかしい部分をしっかり見つめて、その上でどう生きるかを考えるべきだと思う」
「なるほど。僕も人に言えないことばかり考えています」
「ところで君は何年生だ?」
「六年です」
「ほう。それなら正常の範囲内だ」
 少年は何も書かれていない短冊をじっと見つめた。
「ただね、汚い手を使ってはいけないよ。最近つくづく思うんだ。夢だろうと野望だろうと、そこに向かう手段は選ばなきゃいけない」
 少年が申し訳なさそうに頷くと、男はその背中を軽く叩いて励ました。
「先輩は野望がありますか?」
「でっかい野望があるぞ。ちなみに、夢もある」
「え? 二つですか。駄目じゃないですか」
「正確に言うと、野望を叶えた先に夢があり、二兎を追うことにはならない」
「じゃあ、その夢は何ですか?」
「彼女との結婚」
「ええ!? 彼女いるんですね」
「何その驚き」
「あ、すみません。よく見たらイケメンでした。声もかっこいいですし」
「声、そうか。それなら許す」
 二人は声を上げて笑った。男は声を褒められて嬉しく思ったが、ミュージシャンだと名乗らなかった。
「でも、一つに決めるってリスクがありますよね?」
「リスクか。難しい言葉を知っていて素晴らしいが、リスクのない人生なんてあり得ないよ。危険はそこらじゅうに存在するんだ。それに怯えていたら何もできないし、決められないし、何事も運命のせいにして、自分の責任を回避しようとする」
「強くなきゃいけないってことですね」
「大事なのは・・・、勇気かな」
 少年は納得した顔つきで頷いた。そして黒い油性ペンを手にすると、短冊にへろへろの字でこう書き記した。
 勇気をください
「先輩も書きますか? もう一枚あるんです」
「そうだな。勇気がほしい」
「先輩、とても失礼なことを言いますけど・・・、野望の先に夢がある必要ってあるんですか?」
 男は大袈裟に胸を押さえて見せた。ふざけた振る舞いとは裏腹に、実は核心を突かれている。
「野望は勇気で乗り越えられると思います。先に乗り越えて、野望と夢を逆転させるんです」
「少年」
「偉そうなことを言ってすみません」
「君とはどこかで会っていた気がするよ」
「僕もそれ、最初に思いました」
「今日巡り会えてよかった」
「さすが七夕ですね。ということは、もしかして次は一年後ですかね」
 二人はどちらからともなく微笑みをかわした。来年もこの場所で会おうと約束をかわすように。
 
 別れ際、二人は同じ願い事の書かれたそれぞれの短冊を木の枝に結びつけて、眩しそうに夏空を見上げた。

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