【小説】ゆきさり
かつて栄えた漁業の町は、霧の出やすい冬になり、ことさら閑散としている。海から湿った寒さが打ち寄せて、波音は仄暗い哀愁を帯びている。
一見すると老夫婦の、母と息子が営む大衆的な西洋料理店は、木造の舟屋が立ち並ぶ海辺から程近い場所にある。周囲は曲がりなりにも繁華街だが、その店は裏通りに面している為、数少ない旅行客の目に留まることは滅多にない。客の殆どは、地元のお馴染みさんである。
そんな馴染み客の一人に、簑島という若い男がいる。週に二三度、夕飯時に一人で歩いて来店する。冴えない身形で無精髭を生やし、寝癖がひどいこともある。どこか気難しそうな、人を寄せ付けない雰囲気を纏い、口数は少ないどころか、注文と会計の際にしか言葉を発しない。
店の親子とは、かれこれ二年程の付き合いになる。互いの素性は何も知らなかったが――
或る日、簑島の食事中に初雪が降り始めた。他に客のいない店内は、帆船の中がイメージされている。板張りの壁には、異国の港を描いた水彩画と古い舵輪が飾られていて、縦長の窓には、青と白と緑を組み合わせたステンドグラスがはめ込まれている。
「お兄さん、どうやら雪が降ってきたようだよ」
禿げ上がった息子が出入り口の扉を開けると、もう八十代半ばになる母親が身を乗り出した。その老いた体つきは、萎んだように小さい。
「まあ、けっこう降ってるのね」
簑島は、扉の方を一瞥したが、てんで興味なさそうに無表情のままであった。
「お兄さんの家は、近いのかい?」
「そう・・・ですね」
「じゃあ、傘で大丈夫かな?」
「傘? いや、走ればいいんで」
親子は、無言で顔を見合わせた。
しばらくして、簑島が食後の珈琲を飲み終えると、母親が店の奥から大きめの傘を持ってきた。
「使ってくださいね。近くても、濡れてしまいますから」
簑島は、微かに頭を下げた。
夜が明けると、霧の狭間に薄日が差した。雪はさして積もらなかったが、昼頃になっても気温が上がらず、家々の屋根にも白く解け残った。
その夜も、店に現れた簑島は、借りた傘を携えていた。前日のお礼をすぐに言わず、一人いた先客が帰ってから、紙袋に入った菓子折りを傘に添えて差し出した。
「これはこれは、気を遣わせてしまったね」
「まだお若いのに、しっかりしてるのね。私たちは前から、あなたは只者じゃないと思ってるのよ」
簑島は、恐らく初めて、二人の前で笑った。いささか照れ臭そうに。
それが言葉を交わす契機になり、簑島は他に客がいなければ、重い口を開くようになった。画家の端くれを自称した。引っ越してきて十年になるが、当初は自作の油絵が全く売れず、この店に来る金もなかったと言った。
つまり、数年前から少しずつ、売れるようになった。
「お兄さんは、これからだよ。きっと偉くなる。作品を見ずとも、顔つきで分かるんだな。僕はこう見えて、都会で店をやっていたことがあってね。色んな人を見てきた。偉くなる人ってのは、やはり違うもんだよ」
店のマスターは、当然ながら息子の方である。母親を伴い、この場所に流れ着いた経緯などは、何も話すことはなかった。
やがて、春の兆しがほのめく頃、綺麗な三日月の夜に、簑島はぎこちないお洒落をして、うら若い女性を店に連れてきた。いつものカウンター席ではなく、三つあるテーブル席の一つを選んだ。丈の長いコートを脱いで、女性と斜向かいに座った。恥じらうように、真正面を避ける関係性である。髭をさっぱり剃った顔は、いつになく明るい表情をしていた。女性も上品に微笑んでいた。どちらも眼差しに特徴があり、それはふとした瞬間に、いかにも叙情的である。ひょろりと似たような体つきである。
マスターは、野暮なお節介をせず、無関心な態度を取ったが、母親の方は、やけに口元が緩んで、微笑ましい二人に幾度も視線を送った。口数こそ少ない簑島の話し方は、そこはかとなく気取っていた。
食事は、簑島がヒレカツのセットメニューを頼んだ。ライスとスープとサラダ、且つ食後に珈琲が付く。女性も同じセットメニューでエビフライを選び、ライスを少なめにしてほしいと希望した。
和やかな食事中に、簑島は追加注文を入れた。そして、大ぶりのカキフライが四つ、乳白色の皿に乗って運ばれてくると、その一つを女性に勧めた。彼女は、さくっと一口食べた際に、目を大きく見開いて、感動を分かりやすく、或いはわざとらしく表現した。行儀作法が板に付いていて、時折口元に手を添えた。
彼女がお手洗いに立つと、簑島はマスターに声を掛けた。小粋に支払いを済ませようとしたわけだが、手元の財布を開いた途端、忽ちに青ざめた。小銭を慌てて数え始めた。
「いやいや、お兄さん、次でいいから」
側に立つ母親も、慈愛に満ちた表情で頷いた。簑島は、躊躇いがちに間を置いてから、深く頭を下げた。
ところが、その夜を境に、簑島の来店は途絶えた。女性とどこか遠くへ、卒然と出航したように。
春、夏、秋――
季節が巡ると、また厳しい寒さが押し寄せた。店のある繁華街は、所々に丸い電飾が施されたが、どれも侘しく、矮小な飾り付けである為、人気の乏しい零落ぶりを却って際立たせた。
大粒の雪がしんしんと降れば、客足は一層遠のく。
その日の雪化粧は、銀灰色を帯びていた。空も地も海の色さえも、白い輝きは厚い雲に閉ざされた。
マスターは、朝昼夕の三度、店じまいの様相で雪を掻いた。
暗夜になり、彼がまた外に出ると、弱まった降雪は直に止みそうであった。道に積もった雪の殆どは、すでに端の方へ寄せられていた。繁華街の商売人は、平均年齢が六十過ぎだが、精勤揃いである。
店内に戻ったマスターは、手持ち無沙汰にぼんやりした。母親は、奥の座敷で編み物をしていた。
しばらくすると、ステンドグラスの窓の外、店の前で誰かが立ち止まった。入店を躊躇うように動かなかった。腰を上げたマスターは、窓に映るその人影を見た。
程なくして、扉が開いた。傘を畳んで入ってきた男は、いささか青ざめた顔に無精髭を生やしていた。
「おお、珍しいお客さんだねえ」
簑島は、凡そ十か月ぶりに来店した。連れはいなかった。にこりともせず、小さく頭を下げると、テーブル席に足を向けた。
「多分一人ですが、ここでもいいですか?」
「構わんよ。どこでも自由に」
そこは、かの女性を連れてきた際に座った席である。簑島は、懐かしそうに店内を見回してから、斜向かいの空席を見つめた。その叙情的な眼差しは、かくも変わらない。
マスターは、黙して注文を待った。奥から出てきそうな母親を目配せで制止した。カウンターの内側で椅子に座り、身を隠すように背を丸めた。
出入り口の扉は、次の客を迎え入れることなく、ひっそりと閉まっていた。
「すみません。・・・カキフライだけ、お願いできますか?」
「大丈夫だよ。カキフライ、単品ね」
マスターは、手際良く動いた。さして時間を掛けず、揚げ立ての品を提供した。四つのカキフライに、控え目なサラダと檸檬が添えられた皿の上は、以前と同様の盛り付けである。
簑島は、カキフライを一口食べると、瞼を閉じて咀嚼した。そして、ゆっくり食事を続けて、時折低い天井を仰いだ。味わうように。或いは涙を零さないように。
マスターは、食後に珈琲をサービスした。砂糖とミルクが付いていないのは、使わないことを知っているが故である。簑島は、すみませんと呟くように言って、一瞬目を合わせると、微かに笑った。
珈琲を飲み終えた彼は、席を立ってからまごついた。両手をズボンに突っ込み、困惑の色が赤々と頬に現れた。
「次でいいよ。こんな雪の日だからね」
「いつも、本当に、心苦しいです。・・・今日は、頭の中が真っ白で、ふらふらと歩いてたら、ここに辿り着いて」
「また今度、お兄さんの話を聞かせてくれよ」
簑島が深く頭を下げる姿は、あの日の面影と重なった。
それから凡そ半月後、辺り一面がまた雪に覆われた。店はその日も、能う限りの仕込みをしたが、開店休業に終わった。
翌日は、次第に雲と霧が立ち退いて、凍て晴れになった。夜は満月が照らし出す雪明りになった。
雪がすっかり解け去った頃、風のない穏やかな夜に、簑島が店に現れた。清々しい表情で、真新しい紺色のスーツを着て、黒い布に包んだ油絵の額装を携えていた。
店内には、カウンターの内側にぽつねんと立つ、マスターの母親しかいなかった。
「あの、マスターは?」
彼に向けられた眼差しは、気丈な強さと深い悲しみが混ざり合い、返答のすべてを物語った。