マガジンのカバー画像

【俳句】【短歌】の記事

41
俳句・短歌関係の記事をまとめました。
運営しているクリエイター

#文学

【随筆】令和俳壇・四月号の鑑賞

 俳句の専門雑誌のひとつである角川出版の「俳句」より、一般読者からの投句をいくつかご紹介したい。いずれも、プロの俳人に高い評価を得たものであり、俳句の魅力をお伝えするに適した作品であると考えている。  また、一般読者が投句されてから雑誌に掲載されるまで、四か月かかるため、今の季節、春に合わない冬の句である点はご了承願いたい。  また、句の選と解釈は私個人の感想であるためご参考程度にお読みくだされば幸いである。解釈の数は、読者の数と同じだけあると考えている。  句の引用はすべ

【俳句】新年詠の鑑賞

 新年、開口よい言葉で始めたい。親戚が集う、旧友と会う。仕事のかたもいるかもしれない。去年と今年の境目は、自然科学の目でみれば、連続したひとつの点だが、何か特別な瞬間をみいだすのが文化である。文学である。  俳人の虚子(正岡子規の弟子)は、「去年今年貫く棒の如きもの」と詠んだ。棒は時間軸の意のみならず、伝統文化の本義、その地で生き続けてきた人々の志を表しているように思えてならない。宮中の歌会始もそのひとつだろう。  言葉は情報の単なる伝達手段に過ぎないだろうか。万葉時代の歌

【短歌】近代名歌五選とその解釈

 いつも俳句ばかりを紹介している私だが、今回は、短歌を五首紹介したい。小学校や中学校で習う紀貫之や柿本人麻呂といった古典ではなく、現代的な短歌である。  五七五七七の短歌は、五七五の俳句とはまた違った魅力をもつ。十四音(七七)増えたことで、ものだけに託しがちな俳句とは異なり、こころを述べてゆく魅力が大きい。ただし、それは短詩型文学のわずかな面しか言い得ていないため、また別の機会にご紹介できればと思う。したがって、今回は、難しい論ではなく、短歌のみと純粋に向かい合って、その魅力

【随筆】なぜ俳句の感想文を書くのか

 俳句が五七五で表現する文芸である点を知っていても、切れだとか、詩情だとか、深くまで知っている人は、私の周囲にほとんどいない。それは全く問題のない至極当然の事実である。  好きなことは誰かに勧めたい。自分から主張しては、お節介極まりないが、聞かれたのであれば、俳句は面白いよ、と偉人らの名句をみせる。  堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ 水原秋桜子  芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり 松本たかし  芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏  ほとんどの人が「どういう意味?」という。他、

【俳句】南 うみを『入江のひかり』をよむ

 私は、角川『俳句』を定期購読している。収録句数が多く、俳人らの本格的な評論も毎号収録されている。また、俳人の新規発表作品も豊富で、今の俳句に触れられる点は大きな魅力だ。もちろん、他社の俳句雑誌のどれも固有の魅力がある。  今回は、角川俳句七月号に掲載されている、俳人・南うみを氏の『入江のひかり』16作品のなかより、そのいくつかをご紹介したい。選と解釈は私個人の感想であるためご参考程度にお読みくだされば幸いである。  鱊来る雪の鼻梁の若狭富士  原書に注がある。鱊(いさ

【俳句】助詞「が」と「は」の効用

 主格の助詞としての「が」と「は」は一体何が異なるのだろうか。例えば、私”は”ご飯を食べる、私”が”ご飯を食べる。意味は同じだが、発信者の意思に僅かな違いを感じないだろうか。勿論、文脈により、「が」「は」のニュアンスは様々に変化する。  また、過去の拙稿にて、主格「の」「が」の違いについて述べた。本稿にて、重複する点は多々あるが、「は」の妙味と共に再考してくだされば新たな気付きもあるのではないかと期待している。  「角川俳句」令和三年二月号に、【特集】韻文のてにをは、と題す

【俳句】石田波郷新人賞の鑑賞

 石田波郷(いしだ はきょう)新人賞は、三十歳以下の若者を対象とした俳句二十句一篇の賞である。  石田波郷は著名な俳人である。結核を患い五十二歳の若さで亡くなったものの、病気という負の事実を正に昇華する、悲しくも美しい句を多く遺した。現代の医学をもってすれば、もっと長生きしたのかもしれないが、ひとつの病が石田波郷という俳人を、より一段と高い位置におく要因であったと思えてならない。  また、わたくし事であるが、氏のうけた合成樹脂充填術は、私の祖父も同様にうけた治療である。当時

【短歌】誠の言の葉と詩情

詩を論ずるは神を論ずるに等しく危険である。持論はみんなドグマである。(西脇順三郎著『超現実主義持論』より) 事件的真実と「詩」とは本来別次元のものである。「詩」はいつでも純粋に、個々の要素に従って真実でなくてはならない。 (秋葉四郎著『完本 歌人佐藤佐太郎』より)  本稿は、歌人の佐藤佐太郎氏に師事した文学博士・歌人、秋葉四郎氏の論考(戦時下の光と影―第三歌集『しろたへ』論)をもとに、短歌を一流から二流、三流へと落としてしまう一要因を私なりに述べたものである。秋葉四郎氏の

【俳句】助詞「の」の効用

 俳句を俳句たらしめるものは何であろうか。ひとつに、意味の次元に留まらず、音韻、詩情の世界へ飛翔する点である。  俳句は五七五、わずか十七音で構成される世界最短の詩型である。そのため、一音に重みがあり、散文の場合のそれよりもはるかに与える影響が大きい。そして、俳句には、切れ字の概念が存在し、例えば「に」を「や」に変えるだけで、立ち上がる風景が大きく変わってくる。よく引き合いに出される芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水のおと」と「古池に蛙飛びこむ水のおと」の違いである。後者は散文を五

【随筆】回天・水中特攻隊―最期の言葉

 テーブルの上に作りかけの折鶴がひとつ置かれていた。おそらく妻だろう。私は鶴を完成させ、その純白の羽を精一杯広げてみた。頭と尾は凛と立ち、今にも羽ばたくのではないかと思えた。その時、蝉しぐれをかき消すかのように、町内放送がはじまった。上気していた私の身体は、徐々に鎮まり、窓からのわずかな涼気に目を閉じた。  八月六日の朝である。「黙祷」の響きはその背負う歴史の分だけ重い。原爆により多くの人が一瞬にして消え、後遺症に何十年も苦しむ人がいる。  かつてトルーマン大統領は両国の犠牲

芥川龍之介俳句をよむ

「余技は発句の外には何もない」(『芥川竜之介俳句集』加藤郁乎編より) 芸術の鑑賞は芸術家と鑑賞家との協力である。いわば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている。しかし、種々の鑑賞を可能にするという意味はアナトオル・フランスのいうように、どこか曖昧に出来ているため、どういう解釈を加えるもたやすい意味ではあるまい。むしろ廬山の峰々のように、種々の立場から鑑賞され得る多面性を

短歌による旅路の目的地

 旅という経験は、身体が目的地へ行くことのみを意味しないと私は考えている。私個人の告白で恐縮ではあるが、幼少期より乗り物が苦手であり、必然的に旅も苦手である。三半規管の機能が未熟であるのか、精神の弱さなのか思い当たる節は多くある。しかし、私は不幸とは感じていない。なぜならば、言葉により世界を旅することができるからである。世界どころか宇宙も―異世界すらも可能である。光ですら到達しえない宇宙の遥か彼方でさえも、言葉は私を「運ぶ」のである。けだし、目的地を「思い出す」という表現が適

『太陽の門』俳人・長谷川櫂をよむ

 毎年、蝉が啼き始める頃になると、自然と思い出されることがある。それは戦争である。私は戦争経験者ではないため、戦争について語る資格はないかもしれない。しかし、代々語り継がれてきた経験を自己の感性をもって照らし、智慧へと昇華させることはそれなりの意義があると考えている。  角川「俳句」七月号の冒頭に、特別作品五十句『太陽の門』が掲載されている。戦争という悲劇への鎮魂が主題である。作者の長谷川櫂氏は俳壇における第一人者といって過言ではない人物であり、格調高く重厚な句風という印象

角川「俳句」六月号の俳句鑑賞

 今回は、俳句雑誌のひとつ、角川「俳句」より、いくつかの句を紹介したい。選句と解釈は、私の主観であり、いわゆる独断と偏見がみられるかもしれないが、そのことでかえって新しい視点をもたらすという僥倖もあり得るのではないかと思い執筆した。皆様のご参考になれば幸いである。  海を曳く地球柔らか青嵐 「青嵐」対馬康子  山々が青葉を蒼天に広げ、盛んに揺らしている頃、海の波は白銀のように輝いている。その波は立っては消え、消えては立ってを繰り返している。まるで、地球が海を引っ張っている