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【俳句】助詞「が」と「は」の効用

 主格の助詞としての「が」と「は」は一体何が異なるのだろうか。例えば、私”は”ご飯を食べる、私”が”ご飯を食べる。意味は同じだが、発信者の意思に僅かな違いを感じないだろうか。勿論、文脈により、「が」「は」のニュアンスは様々に変化する。
 また、過去の拙稿にて、主格「の」「が」の違いについて述べた。本稿にて、重複する点は多々あるが、「は」の妙味と共に再考してくだされば新たな気付きもあるのではないかと期待している。

 「角川俳句」令和三年二月号に、【特集】韻文のてにをは、と題する評論集が掲載されている。そのなかのひとつ、主張する「が」と間を作る「は」(俳句結社「花鶏」所属、野中亮介氏著)より、一部を引用しながら皆様にその本意をお伝えできたら幸いである。
 また、野中氏の評論から飛躍する点に(つまり私の感想に)、誤りはあるかもしれないため、参考程度にお読みくだされば幸いである。野中亮介氏に最大限の敬意を表して執筆してゆく所存である。


颱風が残してゆきし変なもの 櫂 未知子

 颱風は台風(たいふう)である。
 野中氏によると、上五の颱風”が”を、颱風”の”に変えた場合、句の強い内容を支えるには主語が弱くなる印象だという。
 颱風は自然災害だから、被害にあっても仕方ないと思わざるを得ないのかもしれない。しかし、それでも感情としては、やり場のない怒りや悲しみがあるのではないか。下五の「変なもの」にその思いを感じとることができる。
 したがって、颱風”の”残してゆきし変なもの、ではなく、颱風”が”残してゆきし変なもの、が最適なのだろう。”が”のほうが口語的、”の”のほうが文語的であるからといって、闇雲に”の”にして良いわけではないのだろう。やはり、文学における助詞の使い方は必然性があるのだ。
 また、例えば、「俺は」「俺が」という場合、後者のほうが、我の強い印象(主張の激しい勢い)であり、感情の強さを感じる。勿論、演説や小説の冒頭で、「吾輩は猫である」といえば、”は”の主語を強調する働きは大きい。使い場面により、どちらもニュアンスが変化する点はご了承願いたい。
 瓦礫など全く判別不能なものまで、颱風が!残していったものなのである。助詞一音の使い方により、複雑な感情を表現しているのだ。それを下五で受け止める「変なもの」に、被災前の町(街)の人々の息遣いがみえてくるのである。
 また、このような句に触れると哀悼の誠を捧げる思いになる。


村中が氷柱の中に暮れてゆく 山口 昭男

 前掲句同様、”が”を”の”に変えた場合、主語の「村中」が弱くなる。ただし、この場合の”の”は、現代人に馴染みのない使い方であるため分かりづらいかもしれない。村中”の”氷柱の中に暮れてゆく、は主語が中七下五すべてに薄くかかってゆく印象である(ここは私個人の感覚であり、アカデミックな根拠があるわけではない)。”の”に差し替えても、それはそれで良い句だが、中七「氷柱の」の”の”がまた体言を修飾する”の”であるから、”の”の連続に違和感のほうが多い印象である。
 それでは、村中”は”氷柱の中に暮れてゆく、はいかがだろうか。勿論悪くない。しかし、”は”の一音によって、「村中」が、やや普遍化されてしまい、作者の眼前・眼下に広がる「村中」が立ち上がってこないのではないだろうか。嗚呼、今この瞬間に、この村中が!氷柱の輝き暗くなってゆく様とともに暮れてゆくのだ、という臨場感を出すためには、”が”が勝るのだろう。
 本稿の論旨より外れてしまうが、中七の「氷柱の中に」の”に”も、たいへん良い働きをしていると感じる。”へ”ではなく”に”である。そもそも幻想的な美しい句意であり、そのうえ助詞”に”の一音によって、氷柱の中”に”村全体が収束していくような神秘がある。村という大きなものから、氷柱という小さなものに―氷柱の中に消えていってしまうなぁと思う気持ちを表現しているのではないだろうか。日本の北方、寒国の古き良き美しさを強く感じる一句である。


ふるさとは盥に沈着く夏のもの 高橋 睦郎

 盥は「たらい」と読む。沈着くは「しづく」である。水を張った盥のなかに、夏のものが沈んでいる様子なのだろう。夏のもの、とは抽象的だが、上五のふるさとは、と連動して、衣服や野菜等の物質に限らず、故郷での思い出をも含むのではないだろうか。本句の盥は、金物の年季の入った懐かしい雰囲気が漂ってくるようである。
 野中氏によると、上五の「ふるさと”は”」で軽く間が空くという。氏は、それを間をつくる「は」と表現しておられる。大変分かりやすいご説明をされているので以下に引用させていただく。

 作者が帰郷されての一句でしょうか。しかも個人的な内容を遥かに超えて「ふるさとというものは」という普遍的な懐かしさと、その底に流れる母を思う得も言われぬ悲しみが中下で鮮やかに提示されています。「ふるさとや」では余りにも淡泊な上五となり「ふるさとの」では万感迫る思いが描ききれないのです。(中略)自分にとっての「ふるさととは何なのか」と。このタメのような間が読者の思いを醸し出すためにとても重要な時間なのです。
株式会社KADOKAWA「角川俳句」令和三年二月号【特集】韻文のてにをは 主張する「が」と間を作る「は」(俳句結社「花鶏」所属、野中亮介氏著)より

 たった一音の「は」に、これほどまでに複雑な情報(思い)が詰め込まれているのである。
 多くの俳人は、助詞一音をおろそかにしてはいけない、一音の必然性、一音に魂を込めよ!といったようなことをいう。俳句をつくる(詠む)ときも、鑑賞(読む)するときにも、大事にしたい教えである。助詞の妙味に気付けば、俳句や短歌等の短詩型文学をより楽しめると実感している。
 しかし、アカデミックな技巧に傾きすぎると、それはそれで純粋な感性を曇らせてしまう結果になりかねないため、ひとつの知識として上手に活用していかれることを願うばかりである(私自身、自戒をこめて)。

 最後に、私の初学の頃からの教科書「飯田蛇笏全句集(角川ソフィア文庫)」の句集「心像」より、助詞「は」の妙味ある句をいくつかご紹介したい。

 百姓は地にすがりつく霞かな 飯田蛇笏 

 梧桐は敷布にはえて暑気中り 同

 秋の鯉緋なるは遠く漣がくれ 同

 秋の富士日輪の座はしづまりぬ 同

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