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宗教教義による祖母の死と神の存在【番外編】

「神さまお願いです。助けてください。」

いじめにあっていたとき(「私」というストーリーその1)そこから抜け出したくて、毎晩「神さま助けてください」と祈っていました。
今回、私はその何倍もの真剣さで、神に祈っていたのです。

神への敬意と強い恐怖

宗教という言葉もよく理解していなかった幼い私ですが、神という存在を小さいころから身近に感じていました。
お土産屋で買った石のお地蔵さまに手を合わせたりするといったことも、大好きでした。
なので、辛いときは神にお願いするというが当たり前でした。

父方の祖母は晩年、ある新興宗教に入信しました。
祖母の人生自体がとても波乱万丈だったので、年をとるにつれ、心のより所が欲しかったのかもしれない、今はそう思っています。

祖母からプレゼントしてもらった聖書は難しいものでしたが、とても興味深いものでした。
祖母とは離れて住んでいたので、泊りに行ったときに時々、集会に一緒に行ったりもしていました。

ただ、ノアの箱舟やイエスの十字架刑のように、神のすることが怖いとも感じていました。
良い子にしていないと罰を受けるのではないかと、神を怖れていた側面もありました。
しかし、神という存在を身近に感じられていることに、なんとなくですが、唯一幸せな気持ちを感じていたのも事実です。

裏切られた祈りと神の否定

けれどもある日、事件は起きます。
中学1年生だったとき、祖母が倒れたという連絡が入り、母と兄と私は急いで祖母が搬送された病院に行きました。
そこにはたくさんの機械に囲まれながら、意識がない祖母が眠っていました。

「どうして?」
そう心の中で私はつぶやきながら、神にまた話しかけていたのです。
「お祖母ちゃんは熱心に神さまのことを大切にしています。だからどうか助けてください」と。
必ず助けてもらえるような気がしました。

祖母の親戚の大人たちは、手術について話し合っていました。
祖母が信仰している宗教の教義では、輸血が禁止されていますが、手術には輸血が必要でした。
手術をしても助かる確率は低かったのかもしれませんが、祖母の意向を尊重した結果、手術はされませんでした。

次の日の朝、60代前半の若さで祖母は亡くなりました。
母方の祖父母、父方の祖父も知らない私には、たった一人の、そして大好きな祖母でした。

「どうして?」
私の口から出てくる言葉はこれだけです。
「あんなに熱心に神を信じていた祖母なのに、どうして助からなかったんだろう?」
「どうして神は助けてくれなかったんだろう?」
「どうして?どうして?どうして?、、、」
私の悲しみは怒へと変わり、巨大な空虚さで心が埋め尽くされていくようでした。

「神さまなんていない、いるもんか、、、。」
これが私が下した最終判断でした。

いつも神がともに在ることを思い出した日を境に

その日から「どうして私の人生はこうなったの?」と布団の中でブルブル震えたあの日まで、重い空虚さを心に抱き、生きていくことになります。

そして、今ここにある静寂の意識そのものが私の本体だと理解した一瞥体験後「神はいないんだ」と再度理解しました。
「静寂の意識は途切れることがない永遠そのもの」だったからです。

死ぬことも生きることもない、今ここにある静寂の意識でしかない「私」は、神の存在を感じることができませんでした。
その時、神という存在はやっぱり私の想像でしかないのかと、すごく悲しかったのを覚えています。
けれども数年後、それは間違いだったことを知ります。

神は在る

今の私はその存在を感じています。
神という名前はどうでもよく「それ」「あれ」「一なるもの」「真我」など、どんな名称でもかまいません。

アジャシャンティやガンガジを師として、一瞥体験を深めようと日々過ごしていた私はある時、純粋非二元という概念に導かれます。
純粋非二元と非二元は、全く異なるものです。
体験を深めても深めても理解できなかったことが、純粋非二元に触れることにより、疑問が霧のように晴れていきました。

私はそこで初めて、本当に初めて、幸せだと感じることができたのです。
それは一瞥体験以上に深く確かな幸せでした。

神は在る

永遠に今ここに在る静寂の意識そのものの私が「神」を思い出した瞬間でもあったのです。

次回に続く


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