自助グループや当事者性は、専門性よりレベル低い傷の舐め合いか?について。
たとえ1人でいきているつもりでも
自分の内側と、外の世界や社会、地域、人、家族、地域、自然、ペットなど他の生命体、過去今未来の命とのつながり感やネットワークの中で生かされている感覚があれば、孤立しないで生きていくくとができる。
ただ、なんらかのストレスや悩みが生じて、それへの葛藤や考えが、周りのつながりネットワークの価値観に上手く説明できない、理解されない時、人は、社会や家庭に所属しながらでも、つながりの中の孤独、存在の危機を感じて、大縄跳びの輪のネットワークから、弾き出されたまんまのような気持ちになる。
大縄跳びの輪に入れば安心だよ、みんなが順番に跳んでるし、さあ貴方の番がきたら、同じように跳べばいいだけじゃない、、という親切が、鬱陶しくて、反乱を起こしたくなる、または、背中を向けて常識的な親切を拒否し、アジトでも作り、放っておいてくれ!と、布団をかぶりたくなる。
大縄跳びネットワークを、世間や専門家集団の同調圧力だとしたら、いくら、そちらから、親切に支援や援助の手を差し伸べても、かえって自分の思いが軽んじられそうな同調圧力な押し付け親切にはのらねーよ!と、孤立、反発が強まることもある。
そんな時、大縄跳びの輪に入れず理解されず苦しんだ同じ経験のある当事者や自助グループの仲間が、世間体とは関係ない、小縄跳びグループを作り、その心の穴に落ちて籠城している孤独な命に対して、専門家の仕事としての振る舞いでない、同じ心の闇にいる嘘くさくない存在感や言葉で、寄り添って、声をかけると、毒には毒が、闇には闇が呼応するの法則?により、命と命が、世間や専門家の大縄跳び以外の、自助グループでのみ通じる闇や毒の世界観の中の、小さな縄跳びグループのつながりで命と命が響き合う。
自助のつながりの中で、孤独や闇を持ちながらも、先ゆく仲間が、上手に、世間の大縄跳びグループや、専門家の大縄跳びグループのメリットを、利用し感謝している姿をみて、あーー、この闇や孤独の小さな縄跳びグループの位置から、こうやって、大きな縄跳びグループとつながりを持ち、助けて貰えば、ただただ無力な言いなりロボット患者や生徒、ただのカモにならずに済むんだということを、知り、闇を理解してくれる自助の仲間や人と共に孤独病から抜けて、助けて貰えば良いんだと、自尊心は納得するのかもしれない。
どれだけ偏狭な心の穴に落ちてしまっても、たった1人でも、世間がどうであれ、命どおしが響き合う存在がいることが、生きる助けになることがあるのだな。
言葉にしておきたかったので、置いておく。福祉系の仕事をする中で、専門家やスタッフの言葉や支援が(入らない)と言われがちな人たちに対して、何がダメなんだろう、どういう言葉や支援なら(入るのか)と迷う中で湧きあがってきた思いです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?