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【読書メモ】 『水曜日は働かない』 宇野常寛

蒲 公英

読んだ。『水曜日は働かない』

以下、要約ではなく曲解(書かれていないことを勝手に足しているので)。

【水曜日は働かない】


水曜日は働かないことによって1年365日、ありとあらゆる日が休日に隣接することになる。オンとオフ、昼と夜の世界の間に引かれていた境界線が曖昧になる。灰色の日常の真ん中にぽっかり穴が開いて、そこから色鮮やかな世界が垣間見える。それだけで、世界の見え方はぐっと変わる。
このことで(日常の)自分の物語を、つまり生活の楽しみを発見しやすくなる。誰かの顔色やタイムラインの潮目を気にするのではなく孤独に世界と向き合うことで、閉じた相互評価のネットワークから切断されることで、初めて見えてくるものがたくさんある。そしてこの居心地の良さを発見することこそが、未曾有のパンデミックに人類が立ち向かう武器のひとつになる。そしてこれからの社会を、生活を、働き方を考えるためのきっかけになる。
「水曜日は働かない」ことが、自分の物語をちゃんと自分自身が主役として生きるための入り口になるのかもしれない。

【勝手に走る】


走ると言うのは、とても主体的な行為だ。走る時僕たちは自分の体の許す範囲で自由な速度で移動することができる。走るときに僕たちは世界に対しての距離感と進入角度を、とても自由に設定できるのだ。ランニングは街と街とのつながりや街並みの流れをより強く意識することで、点から点ではなく線の移動になる。
出張や旅行で訪ねた街で走るのも好きだ。走っているときはその街の風景に溶け込むことができる。走る事は半ば匿名化して、風景に溶け込むことでもある。僕は単純に趣味で走っているので疲れれば休むし、中断して帰る。喉が乾けばコーヒーも飲む。僕たちの目的は走り続けることだ。大会もいらないしゴールもいらない。みんなのためではなく自分のために、勝手に走る。それが、走ることそれ自体を目的に楽しんでいる僕のランニングだ。

【観光しない京都】


絵はがきと同じ景色を背景にセルフィーをとって、名所旧跡でウィキペディアをひいて満足して帰るような観光は、手の込んだ読書以上のものではないと思う。本当に大事なのは自分の身体を普段とは違う環境において、寝泊まりし、食事をし、ものを考えることで、世界の見え方や感じ方が変わることだ。それが旅の醍醐味だ。
京都は世界的にも有名な観光地だが、その魅力を伝えるには「何者でもない人々」の視点が必要だ。住民でも観光客でもなく、たとえば転勤族や移住者といった異邦人の視点である。その街の時間の流れや空気感といったものを伝えるには、朝起きて散歩するとか午後どう過ごすとか、モノではなくてコトの次元で考えた方が良い。また市民の日常と非日常(観光スポットや歴史を伝える物)が一体化している土地の方が文化的に豊かである。また近代に結びついた経済圏ではなく、それまでの歴史や文化を担ってきた自然や地形を包括した文化圏に着目するのも面白い。

【飲まない東京】


「飲みニケーション」によって醸成される仲間うちの同調圧力が苦手だ。また、居酒屋と言う場所は酩酊していないととても騒がしくてゴミゴミとしていて、酒を飲まない者にとっては決して居心地の良いものではない。メニューや料理提供のタイミングも、明らかにお酒を飲んだ人が会話を楽しみながら食べることを前提とされている。
僕には以前から「アルコールの提供を前提としない、夜に遊べる場所を作る」という野望がある。東京の面白いところは24時間眠らないところだが、お酒を飲まない人には居場所を与えてくれない。そのことによって、この街の楽しみ方がとても狭くなってしまっている。東京にはもっと別の遊び方ができるポテンシャルがあるのではないか? この街を読み変えるだけで、まだ気づいていない面白さにいくらでも出会えると言う確信がある。「酒の友」を「飯の友」に読み変えるだけで、ぐっと参加できる人と楽しみ方の幅が広がるように。

【「庭」の話】


『窓際のトットちゃん』とは、小学校に居場所を見つけられず世間の「窓際」に追いやられたトットちゃんが、トモエ学園に初めて家庭外の居場所を見つけていく物語である。そして大人になったトットちゃんは、黎明期のテレビの世界に2つ目の居場所を見つけた。しかしテレビの世界では、壊れてしまえばすぐに捨てられ取り替えれるだけの部品に過ぎなかった。その後トットちゃんは『徹子の部屋』といういかなる個性も排除しない場をテレビの中に作り上げ、何十年ものあいだ部屋の中心に座り続けている。
黒柳徹子の取り組みは尊敬に値するが、同時にその限界も感じられる。どうすれば窓際から外に飛び出すことができるか? 相互評価のゲームの中から、その網の目にどうやってほつれを作れば良いのか? たとえばTVドラマ『カルテット』で描かれた、疑似家族的な共同体よりもっと外に対しても開かれた「中距離の対の関係の束」であり、高円寺の銭湯や高田馬場の町中華のような「(圧倒的な無関心をベースとした)そこにいるだけで尊重される場所」といった距離感を持つ場。「部屋」よりも開かれたセミパブリックな場として、「庭」のようなかたちの場が必要とされているのではないだろうか?


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蒲 公英

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蒲 公英
PLANETS School 1期生 / 旅して走って書くひと / フリーエージェント飲食業(SV業務全般・出店サポート・スポットコンサル など) / https://twpf.jp/tanpopo1973