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東北で『弔い』を走る " 旅先で『日常』を走る ~spin-off㉓~ "

2024年6月16日、日曜日。

16時すぎにいわき駅へ降り立った私は、改札口の前から伸びているペデストリアンデッキを通り、駅前交差点の向かいに建つショッピングビルに入った。このビル1階にある花屋で、とびっきり華やかな彩りの花束を作ってもらうために。

日曜日といえば駅前の花屋にとってはかき入れ時だ。店先には溢れんばかりの色とりどりのお花が並んでいるだろうと胸を高鳴らせてながら向かったのだが、残念なことに多くの花はすでに売り切れてしまったようで、ショーケースの中にある花もまばらだ。

それでもお店の方に「できる限り華やかに」とお願いすると、20分ほどでひまわりの黄色がメインの華やかな花束をつくっていただけた。

飲み屋が軒を連ねる裏通りまで歩き、コインパーキングでカーシェアを拾って、私はある人と待ち合わせをしている薄磯海岸の駐車場に向かった。

カーナビが示す所要時間は27分。けっこう入り組んだ経路が表示されているが、じつは去年の年末に近くの工場まで仕事で訪れていたので(とはいえ助手席だったのだが)、道のりはだいたい記憶している。

これから会いに行く相手は、姫花ちゃんのパパという方。姫花ちゃんとは、東日本大震災の際に薄磯海岸に到来した大津波に攫われてお亡くなりになられた、当時10歳の女の子だ。

姫花ちゃんは絵を書くことが得意で、自宅近くにある塩屋埼灯台を書いた作品が、生前にコンテストで入選していた。

震災後にご遺族の方がその絵をハンカチにして販売し、その売上を義援金や災害遺児のために役立ててもらっているのだ。

私はTwitterでこのハンカチを見たことがきっかけで姫花ちゃんのパパと交流を始め、薄磯にも何度か足を運ぶことになった。詳細は以前この連載に記しているので、そちらを参照されたい。

しかしその後はたまたま都合が合わなかったり、姫花ちゃんのパパがTwitterを辞めてしまったこともあり、かれこれ10年くらい交流が途絶えてしまっていた。

ところが、今年に待って姫花ちゃんのパパがTwitter(今ではその名をXに変えてしまったが)を再開したとフォロワーの方から発信があり、そこからまた相互フォローの関係に戻った。
姫花ちゃんのお墓にお花くらいは供えたいとずっと心残りになっていたので、仙台に出張が決まったこの機会に姫花ちゃんのパパにアポを取って、お墓の場所を教えていただけることになったのだ。しかも、パパ直々ににご案内していただけるという。

待ち合わせの時間も迫っている。そろそろ出発しよう。薄磯までの道のり、慣れないトヨタヤリスを操りながら、この旅を振り返っていこうか。

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6月14日。金曜日の昼下がり。私は東北新幹線に乗り、仙台駅にたどり着いた。

この旅の目的は、東北大学の川内キャンパスで学生たちが主催するトークセッションに参加することだ。

飲食関連の仕事をしている私がコロナ禍でヒマになったためになんとなく始めた地方副業から、いつの間にか地方大学の客員研究員になり、せっかく大学に関わるのだから少しは教員もやってみたいと欲をかいて実務家教員養成カリキュラムを修了したのが今年の3月のこと。

このカリキュラムを主催していた東北大学では学生が主体となった学びの場が年に3回行われており、お誘いを受けてこの春から「センセイ」としてこのイベントで教壇に立つようになったのだ。

今回は「センセイ」経験者として、このイベントの特色や教壇に立つことで得られることなどについてお話しをする役割だ。

イベントは夕方に開催されるので、まだ時間には余裕がある。まずは腹ごしらえから。

駅前にずらりと並ぶ牛タン店の中から、じつは別の地域で取り組んでいる仕事がらみで付き合いがあるお店に入った。最近は全国展開を進めているのだが本店はここ仙台にあり、せっかくの機会なので現地で食べてみたくなったのだ。

ランチメニューの牛すじ定食と一緒に、このお店自慢のメニューとしてPOPで大々的にアピールされていた「茹で牛タン」を注文してみる。

運ばれてきた茹で牛タンは想像よりもデカかった。牛タン定食についてくるスープにデカい牛タンが入っているイメージ。味付けは気持ちしょっぱめで、柚子胡椒などの様々な薬味をいれて調味して食べるスタイルだ。味は悪くないのだが、せっかくならオーソドックスな焼き牛タンも食べてみたくなった。

お腹が満たされたところで、いよいよ東北大学に向かうことにしよう。地図を見ると、川内キャンパスは青葉城のすぐ隣にあるようだ。まだ時間に余裕があるので、お城経由で大学に向かうことにした。

カバンからノルディックポールを取り出してセットする。それでは、スタート!

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まずは駅前から伸びているアーケードに入り、駅とは逆方向に進んでいく。平日の14時前という時間帯にもかかわらず、通りは大勢の人たちでごった返している。大学が近いからか、若者の姿も多い。さすがは100万都市、東北地方最大の都市だ。

アーケードを抜けて、西公園に向かって大町通りを進んでいく。ここまでは平坦な道のりだ。天気も快晴で心地よい。快調に進んでいると、スマホに着信があった。取引先の社長からで、「今日これからオンラインで会議できませんか?」とのこと。「15時からなら大丈夫です」と応答し、電話を切った。

フリーランスになって良かったことは平日のこの時間帯でも自分の好きなように動けることであるが、同時にいつでもどこまででも様々な仕事相手から連絡が追いかけてくるのである。これもワーケーションの一種だろうと気を取り直し、歩みを進めていく。

地下鉄の大宮西公園駅のあたりからは長い下り坂になる。じつはこのルート、2020年の大みそかにもノルディックウォークで歩いたことがある。こちらもこの連載で書いているので、よろしければご覧いただきたい。

坂を下りきったところで広瀬川に架かる橋を渡ると、今度は上りが続く。前回は雪が積もっていたので難儀したが、今日はスムースに足を運ぶことができている。

大手門のあたりで左に曲がる。ちなみにここを右に曲がると東北大学に抜けられる。道なりに進んでいくが、上り勾配が徐々に急になっていく。体力的にはなんてことないのだが、とにかく発汗がすごい。直射日光を浴び続け、いつの間にか気温も30℃近くにまで上昇していたのだ。

天守の石垣を横目に見つつさらに坂を進むと、左手に西門跡が現れた。この道を進めば本丸跡まであと少しだ。

ようやく本丸跡までたどり着いたころには、まるでゲリラ豪雨に遭ったかのごとく衣服はびしょ濡れになっていた。これからトークセッションに登壇するのに…

しばらく休憩と衣類乾燥タイムをはさんだ後、大学に向かって坂を下っていくことにした。

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その後、無事に大学に到着し、オンライン会議も終え、衣服もなんとか渇き、トークセッションも終了した。

ディナーはふたたびランチと同じ店で、今度は焼き牛タン定食に舌鼓を打ち、仙台駅からJR仙石線で今日の宿がある石巻駅に移動した。


翌朝の6月15日、土曜日。
石巻駅からJR石巻線に乗り、終点の女川駅に到着したのは10時ちょっと前だ。

震災で駅舎が流されてしまったため、元々駅前にあった温泉施設と一体型の施設として新たに作られたとのこと。駅前にある、これも震災後に作られた道の駅の駐車場に停められているカーシェアを借りて、今日の目的地に向かう。車に乗り込み、カーナビをセットする。どうやら海岸沿いの道を40分ほど進むことになるようだ。では、発進させよう。

ナビの指示通りに海沿いの道を進んでいく。予想と違うのは、右手に見えるはずの海がほぼ見えないこと。女川の海沿いは港を除いては切り立った崖になっており、さらに木々が鬱蒼と生い茂っているのだ。
アップダウンと左右の大きなカーブが続く道を慎重に進んでいく。そこかしこに「津波到達地点」の看板が立っている。嘘だろ! 崖の上だぞ、ここは… 

山道をひたすら進み長い下り坂を下りきった先、北上川の畔に目的地はあった。

震災遺構大川小学校。

" 宮城県石巻市では大川小学校が津波にのまれ、児童74人、教職員10人が亡くなった。地震発生から津波が学校に到達するまで約51分。津波情報は学校側にも伝えられ、校庭のすぐ裏には山があったのに、なぜ子どもたちは校庭に居続けて津波に巻き込まれたのか?"

「『校庭にいなさい』なぜ学校が子どもの最後の場所に」あの日から12年…大川小学校遺族の記録映像が残したものとは #知り続ける フジテレビ解説委員 鈴木款|FNNプライムオンライン

津波による多くの犠牲者を出した。しかも、そのほとんどが小学生という痛ましい出来事が起こった小学校の跡地が、震災遺構として公開されているのだ。

駐車場には大型バスが停められている。敷地の入口では警備員の爺さんと地元の人とおぼしき爺さんが和やかに談笑している。鳥たちの鳴き声と、語り部ガイドの方の声以外の音はなく、とにかく静かだ。

私は実際に津波に襲われた校舎の残骸を目の当たりにしても、心を動かされることはなかった。

震災遺構を巡りすぎて、この状態に慣れてしまいつつあるのだ。

しかし、裏山が視界に入ってくると心穏やかではいられない。

ここを駆け上れば、子供たちが津波にのまれることはなかったのだ。

この地を訪れる前に、予習として映画『生きる』を鑑賞した。

残された遺族たち、そして生き残った少年による事実の検証と原因究明の執念は凄まじく、手に汗を握ってスクリーンにくぎ付けとなった。

結果として、長い時間がかかったが原告(遺族たち)の全面勝訴となったのだ。

この一件では、致命的な避難指示のミスにより多数の死者を出しているにも関わらず、教師や行政などが責任逃れや事実の隠蔽などに必死になっていることは傍目にも明らかであった。なので、あまりの不快さに私は大川小学校関連のニュースに触れることを、ある時期から止めてしまっていた。

しかし、今年の3月に後輩の研究員から唐突に「大川小学校を一緒に見に行きませんか?」と誘われたのだ。最初は全力で嫌がっていたのだが、醜いことから目を逸らすばかりではなく向かい合うことも時には必要で、これがその機会なのだろうと考え直すようになった。都合が合わずに誘ってくれた後輩は来れなかったのだが、機会を与えてもらい感謝している。

校舎跡の向かいには、入場無料の「震災伝承館」が建っていた。

狭いスペースで展示物もまばらであった。

訴訟についても少し、ほんの少しだけ書かれていた。

ここで多くの子どもたちの命が奪われたのだと考えるといたたまれず、早々に引き返すことにした。

女川の道の駅に戻ると、ちょうどお昼時だった。週末だけあって、老若男女入り乱れてかなりの賑わいを見せている。

中には食堂もあったが、魚屋や総菜のテイクアウト、外では帆立を焼いていたりと、近くの市場から直送された魚介類がバラエティに富んだ提供をされている。

結局、海鮮丼やアジフライ・帆立などを各所で購入し、テラス席で舌鼓を打った。

今日はもう運転しないので、缶ビールも。

石巻に戻る列車を待つ間に、駅舎の3階にある展望台から道の駅ごしに海を眺める。

この一帯は海沿いの地形により、特に高い津波に襲われた地域だ。被害も甚大だった。それでも女川原発が無事だったのは、これも海沿いの切り立った地形に助けられたということなのだろうか? そんなことを考えていた。

石巻駅に戻ったのは14時前だった。
そういえば、石巻の街を歩くのも2021年の大晦日以来だ。あの時は仙台から山形経由で秋田県の角館に向かう予定が、大雪による計画運休の影響でルート変更を余儀なくされ、急遽石巻に寄ることにしたのだった。

今回は、石巻に住んでいる知人にどこか見た方がよい場所はあるかと事前に訊いておいたので、教えてもらった場所をこれからノルディックウォークで巡っていくことにする。

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最初の目的地は日和山公園だ。駅から市街地を抜けて住宅街に入るや否や、急勾配の上り坂が続いていく。さすがは日和「山」だ。息が切れてきたので休憩を挟みつつ上っていく。
上がれば上がるほどに建っている住宅は大きくなり、外装も豪華になってきた。市内の高級住宅地という扱いなのだろう。大津波もさすがにここまでは到達しないだろうから。

駅から歩きはじめて30分ほどで、日和山公園に到着した。

かなり上って来ただけのことはあり、眺めが素晴らしい。太平洋を一望できる。

道路沿いには、昭和からそのままの形で営業を続けているように見える売店もあった。

しかし、公園には誰もいなかった。日曜の昼下がりなのに。

この次は山を下りて石巻復興祈念公園に向かうのだが、その前にひとつ気になることがあり、急遽寄り道をすることにした。そこは「日和幼稚園」。大川小学校の震災伝承館に、この事故についてのパンフレットが置いてあったのだ。概要は以下の通り。

震災後に送迎バスが園児5名を乗せて山を下りた。教諭は途中でバスに追いついたが、園児たちを下すことはしなかった。バスはその後津波にのまれ、運転手はバスから投げ出された。意識を取り戻した運転手は幼稚園に戻り事態を報告したが園児たちの捜索は行われず。バスごと海岸近くに放り出された幼児たちは夜中に見舞われた火事で亡くなってしまった。

"「当裁判所は、私立日和幼稚園側が被災園児らの死亡について、地裁判決で認められた内容の法的責任を負うことは免れ難いと考える。被災園児らの尊い命が失われ、両親や家族に筆舌に尽くし難い深い悲しみを与えたことに思いを致し、この重大な結果を風化させてはならない。今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える。 幼稚園側と遺族側は当裁判所の和解勧告を受け止め、以下の通り和解する。」"

日和幼稚園訴訟「異例の前文」に込められた裁判所の真のメッセージ

送迎バスが発見された場所に慰霊碑が建っていた。

手を合わせて園児たちのご冥福を祈るとともに、二度とこのような悲劇が起こらないように、私も微力ながら力を尽くすことを誓った。

その足で、次は震災遺構門脇小学校に。校舎入口の前で猫がくつろいでいる。

交通の便が良いからなのか、けっこう賑わっていた。ここが母校だという人も多いのだろうか? 校舎跡に隣接して展示施設がある。入場料600円。多くの人たちは館内に入っていく。大川小学校とは大きな違いだ。門脇小学校では下校途中の児童7名が津波にのまれてお亡くなりになったということだ。私は施設の外で手を合わせた。

震災遺構をいくつも回って感じたことだが、避難がうまくいった学校ほど伝承施設の規模が大きい。成功事例は積極的に公開できるが、失敗事例は教訓として残し難いということだろうか。

もう夕方近くになるので、「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に寄った後、宿に戻った。

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ディナーを摂ろうと外出したが、知人から推薦された飲食店がどこも営業しておらず、『いしのまき元気いちば』2階の食堂に入り焼き魚定食を食す。

食後はスーパー銭湯で旅の疲れを癒した。

そして今日。旅の最終日である6月16日、日曜日。

朝イチて『石森萬画館』へ。

石巻の市街地全体に石ノ森章太郎が作った作品のキャラクターたちが散りばめられているほどに、「石巻といえば石ノ森」なのである。

館内にはサイボーグ009や仮面ライダーシリーズから、

「姉さん、事件です!」でおなじみのホテルまで、

様々な石ノ森作品の展示がギッシリと詰まっていた。

圧巻は、石巻のご当地ヒーロー『シージェッター海斗』。館内のシアターで15分ほどの上映作品に見入ってしまった。カッコいいよ、海斗!

石巻に別れを告げ、次は日本三景の一角を占める松島海岸へ。

東北を代表する観光地だけあって、家族連れを中心にごった返している。

ここで、宮城県の腕章を付けた方に呼び止められ、観光客アンケートに答えることになった。そういえば石森萬画館でも同じアンケートを取っている人がいたなと思い出しつつ、回答していった。

答える一方ではつまらないので、「ここの松は津波に飲まれなかったのですか?」と聞くと、なんとこの絶景を構成している近海の島々が防潮堤の役割を果たし、津波の高さはさほどではなかったとのこと。

アンケートを済ませた後は、海鮮丼のランチを摂った。今日は本マグロ入りだというセールストークに負けて、2日連続の海鮮丼となった。

食後は屋台で焼いている牡蠣もついでにいただいた。

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という旅程をたどり、いわきに至ったのだ。

道に迷うことなく、薄磯海岸の駐車場に着いた。姫花ちゃんのパパはすでに到着していた。だいぶ待たせてしまったかもしれず、申し訳ない。Twitterで繋がってからおよそ12年越しの初対面だ。

姫花ちゃんのパパは10年ほど前にネットで拝見した姿からあまり変わった様子はなく、すぐに見つけることができた。簡単に挨拶を交わした後、パパの先導でお墓がある寺院まで向かうことになった。
来た道を少し戻ってから左に曲がり、そこからは坂を上っていく。3分ほどで寺院の駐車場に到着した。

墓地の中をどんどん進んで行くと、突き当たり近くに姫花ちゃんとご親族のお墓があった。「この一帯は同じ苗字の人ばかりですから、たぶん案内しないと見つけられないかなと思いまして」 姫花ちゃんのパパの心遣いにより、迷うことなくたどり着くことができた。

さっそくお花を手向け、手を合わせる。

「この墓地の少し手前、お寺の本堂の辺りまで津波が来たんですよ。それで本堂の並びの家にいた住職がお亡くなりになって、息子さんが急遽お寺を継いだのです」

姫花ちゃんのパパのそんな言葉に、私は思わず「こんな高いところまで津波が来たのですか?」と驚いていると、「あの道路の向こうは震災後に嵩上げしたんですよ」との答えが返ってきた。

「震災の慰霊碑もよろしければご覧になってください」とのお誘いに乗り、寺院を出てすぐ先にある慰霊碑にも手を合わせた。

「津波に攫われて亡くなった方は高齢者が多く、その次は若いお母さんと乳幼児。小学生の死者はいわき市全体で二人です」

昨日まで回ってきた地域より子どもの犠牲者はだいぶ少ないようだ。ただ、少数であるがゆえにその存在を忘れられたり、残されたご遺族の辛さや悲しみまで軽視される恐れがある。

慰霊碑のちょうど真裏に建つ工場に私が去年訪れたことを話すと、「ここの社長は私の同級生の(以下略)」と、地元あるあるネタに遭遇した。

東京に戻るバスの時間が近づいてきたため、名残惜しいがここで姫花ちゃんのパパとはお別れすることにした。
「いただいたお花は、明日私が挿し直して起きますね、この辺りを毎日走っているので、立ち寄ります」 なんと、姫花ちゃんのパパもランナーだったとは?(当の私は今回まったく走っていないが 笑)

帰りがけにもう一度薄磯海岸に少しだけ寄った。

先に見えるのは、姫花ちゃんが描いた塩屋埼灯台。

あの灯台の中に、姫花ちゃんのハンカチがエピソード付きで展示されているのだ。そして、灯台への上り口近くにある売店では、姫花ちゃんのハンカチを販売している。全国でこのハンカチを買えるのはここの売店だけだとのこと。
「せっかくハンカチに興味を持っていただいたのなら、実際に現地に足を運んでもらるように、他の場所では売らないようにしています」 姫花ちゃんのパパの強い想いが、その背景には存在しているのだ。

最後に、姫花ちゃんパパの最近のX投稿から知った話をひとつ。
毎年3/11に綺麗なお花とお線香をあげに来てくれる同級生が、今年は来月にお母さんになることを報告しに来てくれたそうだ。

どんなことがあっても、時は進んでいる。我々も、後ろを振り返りながらも一歩ずつ前に進んでいこう。


追記

いわきから東京へ戻るバスの車中、私は東日本大震災の被災地へ今まで関わってきた内容の整理と、この先どのように関わり続ければ良いのかについて思いを巡らせていた。

きっかけは2011年に、ひょんなことから大槌町と少し関わりを持ったことにある。

次に、2012年に姫花ちゃんのハンカチを知ったこと。

しばらく間が空いて、2021年の秋には避難指示が解除されたばかりの富岡町から大熊町までノルディックウォークで走破した。

そんなことをしているうちに、去年は福島県浜通りの水産加工業の商品開発に携わったり、三陸の水産加工業者の新業態をサポートするようになった。そして先にも書いたように、東北大学との縁も少しはできた。岩手・宮城・福島の被災3県とは今後も関わっていきたい。

自分の専門分野である「食」に関することはもちろんのこと、大学生を中心とした若者たちと一緒に手を動かしたり、彼らの成長のサポートができればと、最近特に考えるようになった。
我が身を振り返ると、飲食店を運営するにあたり一緒にがんばってきた仲間の多くは大学生のアルバイトたちだったのだ。もう五十路を迎えて現場からは離れているが、やはりなんらかのかたちで大学生たちと接していたい。

また、被災地支援と並行して、防災に意識が向くようになってきた。今年も元旦早々に能登で大きな地震が発生したこともあり、はじめてボランティアとして被災地に入るとともに、一念発起して防災士の資格を取得した。

被災地に暮らす若者たちの未来のために力を尽くすので、姫花ちゃんにも遠い空から見守ってもらえればいいな。そんなことを考えていると、バスはもうすぐ東京に到着すると車内アナウンスがあった。

明日からまたがんばろう。


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