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ポール・スミスのコートを見せびらかす喜び


あまり身につけるものにこだわりがない私だが、捨てるに捨てられない衣服もある。ポール・スミスのトレンチコートだ。なにしろ、コートと私には切っても切れない特別な結びつきがあるのだから。

今から四半世紀近く前、私は一浪の末にようやく滑り込んだ都内の名も知れぬ大学を卒業して、とあるとんかつチェーン店を運営する会社に就職した。

入社してすぐ二泊三日の研修を行った後、配属の辞令が下りた。
「貴殿を、九州営業部 荒尾店店長に命ず」
なんと新卒で入社早々に、いきなり地方に飛ばされたのだ。しかも、すぐに店長業務をこなさなければならない。

当時は地方のショッピングセンターの開業ラッシュで、そのテナントとして毎月何店舗もオープンさせなければならなかった。仕事を教わる暇もなかったが、なによりきつかったのは休みがなかったこと。たまの休みも連絡がひっきりなしにくる。私は休みでもお店は営業しているのだ。
そんなせわしない環境の中、なんの知識も経験もない私にできることは人一倍ガムシャラに働くことだけだった。縁もゆかりもない土地に来て右も左もわからぬまま悪戦苦闘する私を見かねたのか、従業員(特にパート勤務の主婦の方々)が事あるごとに私のミスをフォローしてくれた。なにしろ、私よりも彼女たちの方がキャリアが長いのだ。

そして周囲のサポートを受けながらようやく仕事にも慣れて来た頃に、私のポジションは店長からマネージャーに変わった。今度は、複数店舗の管理が自分の業務になる。私がスキルを習得するスピードよりも、出店ペースの方が早かったのだ。
店舗からの連絡は担当店舗数に比例して増加していく。しかも、用件はたいがい厄介ごとだ。「お店で急に欠勤者が出ました」「お客様からのクレームが入りました」「レジのお金が1,000円合いません」などなど…

このように、当時の私の仕事は苦行でしかなかった。しかし、そんな環境に身を置いているうちに、なんとなくそれが普通だと思うようになっていた。むしろ若いうちから責任ある業務を任され続けていたために、仕事に対してやりがいすら感じていた。もっとも、毎日の仕事が楽しみだったかといえば、そんなことはなかったのだが。

そんな忙しくも充実した日々を送る中で、管理職としては大きな悩みを抱えていた。それは、部下が次々に辞めてしまうことだった。今まで述べてきたようなブラックな環境での仕事を強いられるので、人の入れ替わりが激しかったのだ。短い間でも苦楽を共にした仲間が脱落することは悲しい事だ。私は上司として、彼らのキャリアに傷を付けてしまうことに申し訳なさを感じていた。

この状況を打破しようと、都内の24店舗を統括していたある時、私は強い決意を持って「このメンバーから一人も脱落させない」ことをチームのミッションに掲げた。テーマは『全員参加』だ。各店舗に散らばった店長たちは、それぞれの現場で孤独と戦いながら仕事をしている。しかし、離れていても同じチームの仲間だ。困りごとは相談し合い、協力して乗り越えて行こう、という私の強い思いを乗せたつもりだった。

しかし、このチームが始動してわずか半年足らずで、私のアシスタントが退職することになった。私が入社してから約10年。彼女が、直属の部下の中で累計13人目の退職者だった。
どうやらここで、私の中で張りつめていた糸がプチっと切れてしまったようだ。彼女の送別会の席で送辞を述べている途中、涙が止まらなくなってしまった。人前で涙を流すなんて、おそらく30年ぶりくらいだった。

みんなに負担を掛けまいと、今まで先陣を切って誰よりも仕事をして来たつもりだ。しかし自分と一緒に仕事をすることで、周囲の仲間たちを不幸にしてしまっているのではないか? 思い詰めた私は、次の朝「後任のアシスタントは要りません。一人でやります。」と上長に宣言した。
辞めてしまったアシスタントの穴を埋めようと、私は今までにも増して必死で働こうとした。

しかしその必要はなかった。「これ以上、誰も脱落させない」というミッションに共感してくれた、24店舗の店長やスタッフたちが協力し動いてくれたのだ。
じつは24店舗のうち7店舗は私が店長を兼務していたのだが、そのほとんどに店を他の店長たちが受け持ってくれた。これでアシスタントがいなくてもなんとか業務が回るようになった。新人店長の面倒を他の店長が見てくれたり、営業力が弱い店舗のスタッフを他店でトレーニングしてくれるようにもなった。

そうこうしているうちに、互いを尊重し助け合いながらともに進んでいくチームが出来上り、我がチームはあらゆる指標で全国トップクラスにまで成長した。自分が人一倍働いて周囲にも同じくらいの貢献を求めていたかつての私は、もうそこにはいなかった。
自分ひとりがいくら頑張っても、成し遂げられることなんてたかが知れているのだ。私が頑張れば頑張るほど部下たちの「自分も頑張らなければ」というプレッシャーは増し、精神的に追い詰めてしまったのだろう。ようやく気が付いた。なんて浅はかなことを繰り返していたのだろうか。

部下たちの協力に感謝し、私はチームのミッションを書き換えた。『友情・努力・勝利』と。
ある時、売上達成の報奨金が80,000円手に入った、せっかくだから形あるものに変えようと、ポールスミスのコートを買った。そして、チームの頑張りの結晶であるコートを店に着て行ったのだ。会う人ごとに、「皆さんのおかげで、こんな高いコートを買えました」と、見せびらかして回った。

それは、見せびらかす私と見せびらかされる仲間たちの双方で誇らしさを分け合う、幸せなひとときだった。

もちろん、良いことばかりがあったわけではなかった。それどころか、無理を続れば相応の代償がある。この翌年に、私は積年の無理が祟って喘息と蕁麻疹を発症した。チームは解体され、その後私は何回か転職を繰り返した。

今、私は48歳になった。昔と比べると無茶な働き方はしなくても済むようになったし、したくもなくなった。しかし思い返すと、直面していた時には苦痛でしかなかった経験が今の自分を形成する大きな財産になることだってあるのだろう、と実感する。

チームの頑張りの結晶であるそのコートは、14年間も着続けたあげく襟や袖口・裾に至るまで擦れてボロボロになってしまった。それでも、このコートを処分する気にはならなかった。今となっては、このコートが自分ひとりの所有物だとは思えないのだ。

先日、ネットで近所にある評判のよい店を調べてコートの修繕を依頼した。着丈や袖丈が少し短くなったが、20,000円で綺麗に直してもらい、無事に手元に帰って来た。

私はこの先も冬場になるとこのコートを着続けて、ことあるごとに彼女たちと共闘した日々に思いを馳せながら生きていくのだろう。

彼女たちと連絡を取ったり会ったりすることは、ほとんどない。すでに亡くなってしまった方もいる。じつは私の部下のほとんどは、私よりかなり年上の女性だったのだ。母より年上の方もいたくらいだ。彼女たちの多くはシングルマザーで、我が子を育て上げるために劣悪な労働環境の中で必死に働いていた戦士だったのだ。

時折、人づてに彼女たちの近況が耳に入ることもある。そんな時に言われるのは決まってこんな話だ。

「〇〇さん、今でも大野さんの話ばかりしてますよ 笑。」


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