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いつも見てるよ (リライト)

 どこかで鳥が鳴いている。
 あれはなんの鳥だろう?
 名前を知っていたはずなのに、思い出すことができない。

 ここはどこ?

 薄明るくて温かい場所。
 私はそっと目を覚ます。
 そして、ぼんやりとしたまま考える。
 ここはまだ夢の中なんだろうか?

 それさえもわからない。

 いったいどうしてしまったの?
 考えてみるけれどちゃんとした答えが何も浮かんでこない。

 悲しいな。 
 悲しいな。

 手元の薄いノートの中に書き込んだいくつもの言葉たち。

 書き込んでみたけれど見返すこともできなくて、振り返ることもできない。
 意味のないことを繰り返しているだけ。

 悲しいけれど仕方ない。
 どうすることもできないのだもの。


 あの子が泣いていた。
 私のことを助けたいって。

 ありがとう。
 だけど駄目だよ。

 あなたまで溺れてしまったら私はいったいどうなるの?
 あなたが元気でいてくれないと、私、困ってしまう。
 生きてくことができなくなってしまう。

 あなただけが頼りなのよ。
 だからどうかしっかり立って自分の足で歩けるように。
 それだけは諦めないでいて欲しい。

 鳥たちの声は続いている。

 無数の鳥が群れを成し、それぞれが思い思いに鳴いている。
 その声は終わらない。
 いつまでもどこまでも。

 私はそっともう一度、一人の世界に戻っていく。
 一人きりのさみしい世界に。


 よく眠っているなぁ。
 一日の大半を眠って過ごしている母に私はそっと毛布を掛ける。

 柔らかい薄手のそれは軽くて洗濯もしやすい。
 何枚もそろえているのだけれど、どれも色はピンク。
 何も聞かなくても母が望んでいるのがわかる。
 他の色だと機嫌が悪い。
 ふてくされた顔になっている。

 考えていることが正直に全部顔に出てしまう。
 子どもに戻ってしまったように。

 それは時々ひどく辛くて、私は不意に泣いてしまう。
 他人の事なら割り切れるのに自分の親だとそうはいかない。
 さらりと流すことができない。

 母のことで自分がこんなに苦しむ時が来るなんて想像もしたことがなかった。

 母は壊れたのではなく、大切なものが外れてしまい裸の心がむき出しになってしまっただけなのだ。
 そういう母を私はそっと見えない毛布にくるんで運ぶ。

 心が痛くてたまらない。
 昔のように大人の母でいて欲しい。
 そういう気持ちが涙になってあふれ出して止まらなくなる。

 母は柔らかなガーゼのハンカチで私の涙をぬぐってくれる。
 からだも心も小さくなって子どもに戻ってしまった母が「泣かないで」と背中を撫でて私をそっと慰めてくれる。
 けれどもう、普通に歩くこともできない。
 よろよろと立ち上がり、一歩一歩を確かめながらゆっくり歩くのだ?
 そうして小さなやさしい声で少女のように話すのだ。

 そういう母が愛しくて私は母を守りたくなる。



 ここはいったいどこなんだろう?

 暖かい日差し。
 遠くから鳥の声が聞こえてくる。

 甘い甘い花の香り。
 柔らかな風が吹いている。

 ここはどこ?

 向こうの影にうっすらと人影が見える。
 誰だろう?




 はっ。
 気づいたら眠ってしまっていた。
 大きなあくびが出る。
 今何時なんだろう?

 あたたかい昼下がり。
 眠り続けている母の隣でうたた寝をしてしまっていた。
 
 なんだろう?
 甘い花の香りがする。

 ふいと見遣ると、ちょっと前に母がデイサービスセンターからもらってきたお誕生日の」花束の中に入っていた百合の花の蕾が開いていた。

 部屋の中はその百合の花の甘い香りでいつもとは違う雰囲気で満ちている。
 花を生けている透明なガラスの花瓶は十年前に亡くなった父が生前大切にしていたもので、ちょうどいい大きさだったので花束の花を生けてみた。

 丸みを帯びたフォルムの花瓶は陽の光を浴びてつやつやと輝いている。
 毎日茎の先を少しずつ水の中で切って、花瓶の水を取り替える時、その美しさに見惚れて時間を忘れそうになる。

 私すごく疲れてる。
 からだも心もへとへとだった。

 甘い百合の香りは、優しく私を癒してくれた。
 透明なガラスの花瓶に差し込む光も私の心を照らしてくれた。

 疲れ切った私の心にきれいな水をこぷこぷときれいな水を注ぎこんでくれて、その水があふれ出していくようなイメージが湧いた。

 きれいな水で潤った私はもう一度きれいな心で母に向かえる。
 そんな勇気が静かに湧いた。

 勇気。
 私に必要なのは勇気。
 
 私には母から逃げてしまわないための勇気が沢山必要だった。
 負け続けていく自分から逃げない勇気も必要だった。

 負けていくだけなのだ。
 勝つことなんてもうない。
 ただ負けていくだけなのだ。

 母はもう元のようには戻らない。
 母はもう、元のようには動けない。

 過ぎてゆく時間とともに母から剥がれ落ちて行ってしまうものたちを諦めて見送り続けていくことを受け入れるしか仕方がないのだ。

 それは私を絶望させて、諦念させて今を彩る。
 私の今は濃いグレーの空気にくるまれ抜け出せない。
  光を帯びた何かが絶対必要だった。


 

 あの子がまた泣いている。
 どうしてあげたらいいんだろうか?

 かわいそうにごめんね。
 なんとかしてあげたいけれど、私ではどうすることもできない。
 
 ごめんね。

 あなたをそんなに苦しめるつもりなんてなかった。
 ごめんなさい。
 
 それでもあなたは私のことを投げ出さないでいてくれる。
 本当にありがとう。

 この気持ち本当だよ。
 だからそんなに苦しまないで。

 


 きれいな花に力が抜けてぼぅとしてたら泣いてしまった。
 また母に心配をかけてしまった。

 本当に疲れてる。
 泣いてるうちにまた眠ってしまった。
 慢性的に疲れてる。
 仕方がないのだけれど。


 ゆうべ父が夢に出てきた。
 若い頃の明るくて元気な姿の父だった。

 輝くような笑顔だった。
 
 目が覚めた時、何故だか私は泣いていた。
 涙があふれて止まらなかった。

 その夢の中で私は父に何か大切なことを聞いような気がする。

 夢の中の父は確かに何か大事なことを伝えてくれたはずなのに目が覚めた時、私は何も思い出すことができなかった。

 そのことが今でもとても気になっている。

 夢の中で父は、私を優しく抱きしめてくれた。
 大きな温かい手で私の頭をなでてくれた。

 その夢の中で私は小さな子どもに戻っていた。
 夢の中の小さな私は父に甘えて安心していた。
 日頃の辛い気持ちを父はしっかりと受け止めてくれて、励まして力づけてもくれた。
 嬉しかった。

 母と二人の生活は本当はとても心細い。
 平気な顔をしているけれど本当は苦しい。

 私はすごく無理をしていた。
 仕方がないと思っていた。
 どうしようもないんだと。
 私だけじゃないとも思った。
 だけどほんとはものすごく辛かった。
 苦しかった。

 夢の中の父はただただ私に優しくて、私はそこで泣いていた。
 泣きながら父に「辛いの」と弱音を吐いていた。
 父は黙って受け止めてくれた。
 子どもの私は安心して小さな笑顔を浮かべたりもした。
 泣いたり笑ったり忙しい夢だった。


 次の日母をデイサービスに送り出してから、私はもう一度布団にもぐりこんでぐっすりと眠った。

 その日デイサービスから戻ってきた母は私の顔を見るなり、「目の下の隈がなくなったから安心した」と言った。

 毎日一度は鏡を見ていたはずなのに、そんなものが自分の顔にくっついていたことに気がつくことができなかった。
 自分の気持ちを誤魔化して元気なふりをしてたのに、母は気づいて心配してた。

 いくつになっても私は母の小さな娘で、子どもに戻ったように見えても母は私の母なのだった。
 母は私を気にかけていつでも心配してくれていた。

 


 疲れ果てた顔をしていたあの子がやっと少し元気になってくれてほっとした。
 そのうち不意に倒れてしまうんじゃないかと思ってすごく心配していたの。

 だけどもう大丈夫。
 しっかりとよく眠ってくれたのね。
 ほっぺたに赤みが差して表情も優しくなっている。
 
 たまにはちょっと怠けなさい。
 それでないと続かないよ。
 長い道のりなんだから。
 

 
『長い道のり』って、なんて重たい言葉なんだろう? 
 
 こんなこと、いつまで続くんだろう?
 半分寝ぼけた頭の中でぼんやりと考える。
 
 長時間眠ってからだが軽くなっている。
 息が深くなった。
 眠るって大切。
 本当にそう思う。

 

 母の言った『長い道のり』という言葉、重たすぎて受け止めることができない。

 この頃時間が空いた時、夢に出てきた父のことを考えていることが多い。
 あの夢の中で泣いてから、私は少し変わったかもしれない。
 肩の力がちょっとだけ抜けたのかも知れない。
 そして。
 夢の中で父が私に伝えてくれようとしていたことが一体どんなものだったのか、そのことばかり考えているけれど、思い出すことはどうしてもできなかった。

 

 百合の花の香りがしている。
 もう少ししたら花は散ってしまうだろう。

 いくら丁寧に水切りを繰り返してきちんと水を変えたとしても切り花の寿命は短いと決まっている。

 今まで何度も枯れた花に、散った花に、「ありがとう、お疲れ様」って言いながら片づけてお別れをしてきた。
 申し訳ない気持ちを優しい言葉で誤魔化しながら。

 それでもまた、お店で買ってきたり誰かにプレゼントされたりして家にやってきた新しい花を花瓶に生けて飾っている。

 花はその美しい姿で私と母を癒してくれる。
 

 今飾っている百合の花もいのちのあるだけきれいに咲いて私たちに元気をくれている。だからその花たちが少しでも長く健やかに咲いていられるように毎朝水を入れ替えて茎の先端を少しずつ切る。

 透明なガラスの花瓶に花を生けると一目で茎の長さがわかる。
 日に日に文字かくなってゆく茎は花の終わりを予感させる。

 どんなことにも終わりはある。
 それをそのまますんなりと受け入れることは難しい。
 痛みを伴うことだから。

 それでもやはり逃げられないし避けて通れるものでもない。

 




 昨夜夢の中であの人に会った。
 何年ぶりだろう?
 随分と若い姿だった。
 
 私は年老いた姿をあの人に見られてしまうのが恥ずかしくてどこかにそっと隠れようとしたけれど、隠れる場所がどこにもなくてどうすることもできなかった。
 
 あの人は笑顔を浮かべてまっすぐに私の方へ歩いてきた。
 ドキドキしてしまった。

 そうしたらとても不思議なことが起きた。
 
 気づいたら私はあの人とおんなじくらいの年頃の自分に戻っていた。
 結婚する前の若くて何者でもない頃の自分に。

 夢ってすごいと思った。
 
 もう何年も普通に歩けていなかったのに、いつの間にか私は自転車に乗ってあの人を追いかけていた。

 先を行くあの人に大きな声で聞いてみる。

「私たち、どこに向かっているのーーーーー?」

 あの人は何にも答えてくれない。
 黙って先を行くだけだ。

 息が切れるけど、そんなこと平気だった。
 
 こんなふうに思い切り自分で動ける日が来るなんて冗談でもなんでもなく夢にも思っていなかったから。

 思い切り動けるってなんて気持ちがいいんだろう?
 あの人はどこに向かっているんだろう?

 自転車を漕いで追いかけながら考える。
 
 知らない道の若葉の中を私は汗をかきながらあの人の背中を追いかけた。
 と、急に広い場所に出た。

 ここはどこ?

 あの人が急に自転車を止めたから私も急いでブレーキを掛けた。
 
 明るい。

 気持ちのいい風が吹いているから汗はすぐさらりと乾いて全く気にならなくなった。

 丘の上だった。

 美しい街並みがはるか彼方の遠くの方までどこまでも広がっている。
 
 小さな小さな車が陽の光を反射させてきらきらと光りながら細い細い道をゆるゆると進んでいく様子が見える。

 あの人が振り向いた。
 
 そこで夢は終わった。
 そして…。

 

 ぼんやりとした意識の中で私はあの子を探している。

 ワタシノムスメハドコニイルノ?
 ココハドコナノ?
 トテモココロボソイ。 
 コワイヨ。

 声が出ない。
 何も見えない。

 ただ意識だけははっきりとしていた。

 どうしてなんだろう?
 あの人が見ている。
 
 姿は見えないのに存在を感じる。
 
 あの人がいる。
 そして見ている。

 私は怖くなくなった。
 
 一人ではないんだ。
 あの人がいるんだ。
 その事実は私に大きな勇気をくれた。
 
 震えるような心細さはすぐに消えていった。

 そして、あの人だけではなくて沢山の懐かしい人たちが私を迎えに来ていてくれている。

 みんなが私に伝えてくれる。
 一人じゃないから大丈夫。
 私達がいるんだから。
 みんなあなたを見てるから。

 そうなんだありがとう。
 私はそちら側にいくのね。

 そこは真っ暗な一人ぼっちの世界じゃなくて明るいきれいな場所なのね。
 怖がらなくてもいいんだね。

『そうだよ』って、周り中のみんなが静かに伝えてくれたから私は怖くなくなった。

 一人じゃない。
 みんながいる。
 大丈夫。
 私はもう一人じゃないんだ。

 ありがとう。
 一緒に行くね。
 ありがとう。




 あっけなく母は向こう側にいってしまった。
 私に何も言わないまま静かに息を引き取った。

 母がいなくなってしまった後のがらんとした一人ぼっちの部屋は、本物の孤独な空気に満ち満ちていて、叫びだしたくなるような悲しみが押し寄せてくる。

 
 ホントウニ、ヒトリボッチニナッチャッタ。

 うつむいて動けなくなってる今の私を支えてくれる人はいない。
 声をかけてくれる人もいない。

 涙すら、零れてなんてくれなかった。

 ぼんやりとそのまま座っているうちに時は流れて夕焼けが真っ赤に空を染めていた。

 

 お腹空いた…。

 無言の時間が流れた後で我に返って顔を上げた。

 何もしなくても食べられるものが何かないだろうか?と考えて、冷蔵庫の扉を開けた。

 三段ある棚の真ん中に、母にお食べさせてあげようと思って買っておいたプリンが一つだけあった。

 私はそれをお皿に出して、大切にしているとっておきのスプーンで少しずつ丁寧にすくって食べた。

 プリンは私に優しかった。
 甘くて柔らかくてトロリとしていた。

 そしたら急に涙がこぼれた。
 
 プリンの甘さと優しさが私を泣かせてしまうのだ。

「プリンのバカ」
 私は泣いた。

 プリンには罪はない。

 だけど私は泣いている。
 涙があふれて止まらない。

 母が生きていた時も私は時々泣いていた。
 疲れていた。
 そしてそれだけではなくて母がいたのに孤独だった。

 どんどん弱っていく母を抱え込むようにして何とか生きていたけれど、他の誰とも分かち合えない辛い気持ちで暮らしていた。
 さみしさも不安も母がしたから耐えられたのだ。

 だけどもう、母はいない。
 空虚な気持ちで一人の部屋でただただ途方に暮れている。

 食べ終わってしまった後もプリンの甘さはほのかに残っている。
 
 私は涙で汚れた顔をざぶざぶと音をたてて冷たい水で洗い流して、冷えた頬を風に当てるためにベランダに出ると、干しっぱなしの洗濯物に気がついてとり込んだ。

 日常が私をそっと救ってくれた。
 私はもう一度泣いた。
 そして冷たい水を飲もうとキッチンに向かった。



 母が向こう側にいってしまってからもう何年が経つだろう?
 あれから私は結婚して二人の子どもに恵まれた。

 子どもたちは元気で無邪気で、毎日が勢いよくすごい速さで過ぎて行く。
 一日が終わるとほっとして、次の日も、その次の日もおんなじことの繰り返し。

 それでも自分をしあわせだと思えているのは毎日成長していく子どもたちと一緒にいられるからなのかも知れない。
 小さな変化も喜びで、小さな笑い、涙でさえもきらきらとして見えた。
 そんなささやかなよろこびが悲しみを小さなものにしてくれる。

『お母さん』って見上げられる度に責任とよろこびの両方の気持ちが湧きあがってきて、普通ではできないこともがんばれる、そんな気持ちに自然になれる。

 いろんなことがあるけれど、いちいち細かく振り返ってなんていられない。今日の次には明日が来るし、明日の次には明後日が来る。
 しなくてはいけないことを追いかけたり追いかけられたりしているうちに時間はどんどん過ぎて行く。

 時の流れに浮かんだ船に私はやっと乗れたのだ。
 それが仕事の人もいるのだろうしほかの何かの人もいて、私の場合はこのかたち。

 人それぞれなんだと思う。
 おんなじになることなんてできない。
 みんなそれぞれ別々のその人だけの道がある。
 
 たとえかたちが違っていてもみんなしあわせでいてくれたらいいなと思う。

 人の心も生活も見えないところでつながっている。
 自分だけでもあの人だけでもない。

 全部の人がみんなどこかでつながっていて助け合ったり温めあったりしてるから、みんながしあわせだったらきっとどうしようもなく悲しいことhあなくなっていくような気がする。

 時の流れを行く船を揺らす波も風も全部、誰かの痛みや苦しみが作っているのだとしたら、みんながしあわせになって沢山の人の痛みが消えて心の優しい人が増えて暮らしやすい世界が作られていくような気がする。

 そういう優しい人たちの中で私は暮らしていきたいし子どもたちにもそうして欲しい。

 強い風や嵐に無理やり耐えたりしなくてもしあわせに生きられる世界で、穏やかに暮らしたい。

 弱くても少しみんなと違っていても誰も苦しまない世界。

 それを実現するために今まですごく沢山の人たちががんばってきたのに、いつまでたってもそうならない。
 
 神様はきっとあきれてる。

 そんなことを時々、ぼんやりと考える。

 ふと見ると、ベランダで子どもたちがシャボン玉遊びをしていた。
 よく晴れた空にいくつものシャボン玉が虹色に輝きながら浮かんでいく。

 私はこの光景をいつまもずっと鮮明に覚えているだろうう。
 何年たっても鮮明に思い出すことができるだろう。

 そんなふうに思った。


 
 夏休み、子どもたちが主人に連れられて主人の実家に出かけた日、久しぶりに家に一人。

 洗濯と掃除と洗い物を片づけてしまったら何をしたらいいのかわからなくなってしまった。

 なんだかとても疲れていたのでリビングのソファに腰を下ろして静かに目を閉じてみる。

 不思議な形の幾何学模様が瞼の裏に溢れ出してきてぐるぐると渦巻いて、いつまでたっても止まらない。

 蝉の声?

 耳鳴りなのかも知れない。
 ここ何日か慌ただしくてちゃんと眠れていなかった。

 そんなことを考えているうちに、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。

 


 不思議な不思議な夢だった。

 夢の中のその場所は明るくて柔らかな空気感に満ちていた。

 ここはどこ?
 よくわからないけれど、たくさんの人がいて話したり笑ったりしている。

 甘い花の香りと遠国聞こえるたくさんの鳥の声。

 その夢の中で私は子どもに戻っていて、肩にかかる長い髪を真ん中で二つに分けて結んでいた。
 知らない国の民族衣装のようなだぶだぶのワンピース。
 ふかふかとしたブーツを履いて手には小さな花で作ったブーケを一つ持っていた。

 広場に行くとなぜだかわからないけれど、そこにいた人たちが右と左に大きく分かれ、まっすぐな一本の道が私の前に現れた。

 私はその道をまっすぐ前に進んで行った。

 たどり着いた先にいたのは、若くて元気な両親だった。

 私はおずおずと二人にブーケを手渡した。
「ありがとう」
 二人は同時にそう言って、二人でブーケを受け取ってくれた。

「今日は何かのお祭りなの?」
 たくさんの人たちが集まっているのが不思議で子どもの私がそう訊くと、二人は笑顔でこう言った。
「今夜、星まつりがあるの」
「星まつり?」
「そう、星まつり」
「星まつり、って」
「たくさんの人たちが星になって空に昇っていくのよ。私達も今夜、みんなと一緒に星になるの」
 母は穏やかな表情で静かに私にそういった。

「星になってしまうの?」
 私は急に悲しくなって泣きそうになってしまった。

「泣かないで。大丈夫だから。消えていなくなってしまう訳じゃないのよ。ただ星になって空に昇っていくだけなの」
「でも、そうなってしまったら、もうこうして夢の中でも会えなくなっちゃうよ」
「・・・」

 記憶には残っていなかったけれど、眠っている間に私は時々ここに来て両親に会っていたらしかった。

 二人は悲しそうな顔をしてしばらくの間うつむいてその後でこう言った。
 
「もうこうしては会えなくなってしまうけれど、私たち空からいつもあなたのことを見てるから。どんな時も昼も夜も必ずちゃんと見てるから。あなたは一人じゃないんだから。心配しなくてもいいんだよ」
「でももう顔も見れない。あってお話をすることもできない」
「・・・」
 二人は無言でうつむいて目を閉じた。

 どんな人もこちら側に来た後に星になってしまうことを夢の中の私は知っていた。
 いつか必ずこの日が来ると知ったはいた。
 だけどその時はもう少し先なのだとどこかで思い込んでいた。
 もう少し自分自身が大人になって、一人ひとりでいられる時まで待っていて欲しかった。

 だけどもう決まってしまったことなんだね。

「どんな時でもいつでも見てるよ」
「・・・」
 私は泣きだした。

 しばらく激しく泣き続けて何にも言えなかったけど、最後に言えた。
「ありがとう。見ていてね」って。
 二人は少し悲しそうに、だけど優しい顔で笑って私を抱きしめてくれた。



 その不思議な夢から覚めた後、私は夢の中のすべてのことをありありと憶えていた。

 からだの疲れはすっかり取れていたけれど、その夢の記憶があまりにくっきりとしていたために、目覚めた後も私はしばらくソファから立ち上がることができなくてぼんやりと過ごしてしまった。

 今夜家族は戻ってこない。
 夜の間も一人きりだ。

 まだそんなに遅い時間じゃなかったけれど部屋の中はもう薄暗くなっていた。


 しばらくしてやっとソファから立ち上がった私は南向きの窓にかかっているレースのカーテンを開いて、透明なガラスの窓越しに夕暮れの空を見上げてみた。

 少しだけあかねが混ざった夕闇の空に細い雲が浮かんでいる。
 空はすっかり藍色だった。
 小さな三日月が見えた。
 でも。

 星はまだ見えなかった。
 

 

 



 


 

 

 
 
 
 
 

 

 

 

 
 

 
 

 

 

 


 

 

 

 
 

 


 





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