ほんとはすごく怖かった。
今までの状況の中、本当はずっとすごく怖かったんだっていうことを最近やっと自覚できるようになりました。
『怖い』という気持ちを感じないようにしていないとどうにもならなかったから気付かないふりをしていただけで本当はものすごく怖い気持ちでいっぱいでした。
母を見送って、いろんなことが終わっていって、力が抜けてしまっている今、途方に暮れながらも、何にもせずにはいられないので、わからないなりに動き続けている今、『今まで本当に怖かった』という気持ちに押しつぶされそうになって呆然としています。
そうしてすごく疲れを強く感じます。
なんだかずっと必死な気持ちばかりで暮らしてきてしまったので、こういうときにどうしたらいいのか、まったくわからなくて困っています。
母には、生きている間に、もっと何かしてあげたかったと思うことばかりで、それと同時に思いもしないことをされたり言われたりして、びっくりすることしきりです。
どんな人でもそうなんだと思うのですが、その立場に立ったことのない人にはわかってもらえないことばかりなんだと感じることばかりです。
持たないほうが楽なものでも、その大変さがわからないとほかの人を犠牲にしてでも手に入れたくなってしまう人がいるということを知って、驚くばかりの日々。
必要のないものはないほうがいいような気がするのだけれど、それでも、人から取り上げてでも欲しいと思う人の気持ちを理解することが、弱り切っている今の自分には全く理解はできません。
いろんな人の執着がくっついているものは、汚れた気持ちや濁ったものが確実に混ざりこんでいるような気がします。だから私個人の意見としては、もっとさらりと暮らせるように生活を工夫して、違う価値観で暮らせるほうがいいとしか思えないんです。
工夫して、ちゃんと時間をかけて準備したら、できなくはないはずで。
そうして何故思いもしない誤解を受けてしまったのか、まったくわからないのです。
一番信じていた人も自分勝手に離れて行ってしまって、本当に、何を信じたらいいのかよくわからなくなってしまっています。ショックでした。
そういう自分をできるだけ大切にするためにこれからどんなふうにしていくのかを考えた時、心を落ち着けながら、一つずつもう一度組み立てなおしていくしかないと考えるようになりました。そういう気持ちになれるまで、時間はかなりかかりました。
みんな、ね、自分勝手でした。
それに対して怒りの気持ちはずっとあります。
それでも、そのことをずっと考えていても何も変わらないので、何かできたら、と思って、できることをしてきたような気がします。
本当に不器用で、何にもわからない私が、場当たり的に続けてきたことが何かの形になるなんて、難しいなんてことはわかってはいたけれど、それでもそれをするしかなくて、仕方なく続けてきました。
今年の初めに、『なるべくたくさん美術館に行けたらいいな』と思って、いくつかの美術展に行くことができたのはnoteを書いていたからできたことだと思って感謝しています。
とにもかくにも不器用で、文章もへたくそで、何にもわかっていないのにいろんなことをしてみたくなってしまう私の書いてきたnote。
読み返す余裕もないまま書き続けてきてしまったnote 。
そうしてほんとは怖くて怖くてたまらないのに、そういう余裕もないままに続けてきてしまった暮らし。
なんだか全部がめちゃくちゃで、心許なさ過ぎて、ただ呆然としてしまうのです。
本当に大丈夫なんだろうか?
そう考えてしまうのは、今始まったことではなくて、最初からずっとそうでした。だから今まで続いたことが、ちょっとだけ、奇跡のような気もしています。
振り返ってみると、本当に、なんて無茶苦茶だったんだろう?と、我ながらあきれてしまうことばかりです。後になって考えてみればいろんなアイデアも浮かんでくるのに、その時は他のことが重なってしまって、どうすることもできないことばかりでした。
「あぁ、自分って大したことないんだなぁ」
そう思うことで救われることと、
「もっとしっかりしないといけない」と思うことと両方あります。
私、本当に、大丈夫なんだろうか?そう思うことばかりです。
思いがけず、心細さと向き合う年末になってしまいました。
きっとこんな風に心細いと思っている人は多分、私だけではないとも思うのだけれど、それでもとても辛いです。
そうしてね、こないだものすごく驚いたことがあったんですが、本当に怖すぎて、ちょっと書けないかもしれない。
私が母に話しかけていた時に、母の前に置いてあったお鈴がゴトン!って大きな音を立てて落ちたんですね。あんまりタイミングがぴったりしていたので本当にものすごく驚きました。怖かった。
その時母に話しかけていたことが的を射ていたのだとしたら、怖いです。
人の怖さを真のあたりにしすぎて、かなり怯えています。