見出し画像

花ちゃんち

「寒くなったね」

「そうだね」

朝の道で交わした会話。

本当に寒くなった。 手袋をしていないと指先がかじかんで感覚がなくなってつらい。

昨日の夜、「明日行くね」って電話があった。

嬉しかった。

やっと歩けるようになった、娘の子供が久しぶりにやってくる。

毎日忙しいからそんなに考えているわけじゃないけれど会えるのは嬉しいな。

はじめてのことじゃないけど、女の子は可愛い。

息子の子供は四歳になった。

娘の娘は今、一歳半くらいだと思う。

くらいだと思う、というのは、大体そんなに気にして数えていないからということと、別に暮らしているということ、そして忙しさにかまけて仕事以外のことを考えている余裕がないということなのか。

このところなんだかお客さんが増えている。

銭湯ブームが来てるのだそうだ。

昔ながらの佇まい、そういうものを求めて若い人たちがここにやってくる。

仕事がうまくいかず帰ってきた息子家族がそのブームに乗ってやってくる人達のためにいろんなことを工夫しておもてなしを充実させてくれたから、来てくれる人が増えてくれて、なかなかに忙しい。

細かい仕事が増えたから、そのことで頭も体も目一杯になってしまうことがほとんどでほかのことを考える余裕がなくなってしまうのだ。

けれどもそれは嫌ではなくて、少しだけ有難い。

なぜなら娘の子供が生まれてから少しして急に死んでしまった妻のことを思い出す時間が劇的に減るから。

もう少しして店を閉めたら二人でゆっくり旅行に行こうと話していた矢先のことだった。

あまりにも突然で呆然としていた自分の元に息子家族が同居したいと言ってやってきてくれた時、正直困ったと思った。

なぜならまだ自分が働けるとわかっていたのに早めにここを閉めてしまおうとしていたのは採算をとることが難しくなっていたからだった。

お客は年々減っていた。

けれどもできる限り続けてきたのは通ってくれる常連さんが何人もいたからで、だからと言ってこの先ずっとこのまま続けていくというのは難しいと言わざるを得ない状態だった。 息子夫婦とその子供の将来を考えたらその選択は無謀に思えた。 

息子たちを受け入れてしまったのはただ本当に自分一人でいることが、どうにもつらくてやりきれなかったからである。 心の中でずっと後悔もしていた。

けれども息子がいろんなことをして沢山のお客様を呼び込んでくれたので、ここを閉めなければならないほどの状況は今のところ避けられている。 細かい仕事は増えたのだけれど、前に話してみた通りそれは全然嫌ではなかった。 仕事がたくさんあることは今の自分には本当に有難いことだった。

それだけではなくて新しいお客様たちと息子が作ったつながりは、温かい交流を生んでくれて、この場所を生き返らせてくれたのだ。

本当に感謝している。

  。。。

「お父さん、朝ごはんできましたよ」

息子の嫁さんが呼びに来てくれた。

いい嫁だ。

さっぱりとしていてそれでいて心遣いがこまやかで。

健康で明るくて、申し分のないいい嫁だ。

しっかりともしている。

朝の食卓には温かい味噌汁と炊き立てのご飯と漬物や昨日の残りの肉じゃがが並んでいた。

手を洗って食卓に着くと家族みんながもうそろって待っていてくれて、声を合わせて「いただきます!」といつものように言うことで朝の食事が始まった。

向かいの席に座った太郎は無心にご飯を食べている。

小さな顔にご飯粒をいくつもつけて箸の使い方を直されながらそれでも無心に食べているのを見ると自分も食が進むのだった。

妻がなくなった後一か月ほど一人で暮らしていた間、あまり食欲がなくて5キロほど痩せてしまった。

5キロ痩せるとかなり見た目が変わるみたいで久しぶりに会う人は必ず健康のことを心配してくれた。

特別不調はなかったし自分では何も感じていなかったのだけれど、ほかの人たちには心配をかけてしまっていたようだった。

後から考えてみると、そのことで息子はここに来てくれたのかもしれないと思ったりもしたが、あまりにも突然に妻がいなくなってしまったことがかなりの痛手であったので、ただ毎日を過ごしていくことだけで精一杯でそのことについて話すこともなかったし周りの人も取り立ててそのことを聞いてくることはなかった。 

体重はいつの間にか元に戻っていた。

顔色もよくなったと言われる。

健康も今のところどこにも支障はない。

そしてなんだかんだ言って忙しい毎日を暮らせることは喜びだった。

  。。。

「花ちゃんたち、何時ごろ来られるんでしたっけ?」

「いや、何時だっけ? ごめんな、思い出せない」

息子の嫁に聞かれたけれど、予定の時間を聞き忘れていてこたえることができなかった。

「大丈夫ですよ、いつだって。花ちゃんに会えるの久しぶりですね。楽しみだな。どんどんかわいくなりますもんね」

「いや…」

つい口ごもってしまう。

特に理由はないのだけれど。

太郎は父親と一緒に保育園に行く準備をしている。

朝はなんだかあわただしい。

  。。。

昼を過ぎても、娘たちはやってこなかった。

そして夕方になってしまうほんの少し前に我が家にたどり着いた。

「ただいま、お邪魔します」

なんだかよくわからない挨拶をして家の中に入ってきた。

「これ皆さんで」

いつもと同じ手土産を息子の嫁に渡す。

「ありがとうございます。早速みんなで食べましょうか?」

「いいですね、でも夕飯の後にしませんか?そのほうが子どもたち、きっとご飯を残さないでくれるから」

「そうですね」

お菓子の包みをテーブルの上に置いて、嫁は夕食の支度にとりかかった。

娘は私に花子を預けて台所に行ってしまった。

花子と太郎と私とが三人で茶の間に座り、なんとなく黙っていた。

最初に動いたのは太郎だった。

お気に入りの絵本を持ってきて、花子に読んでやりだした。

花子はおとなしく聞いている。

太郎の読む絵本の中に可愛い子リスが出てきた。

「花ちゃんはこの子に似てるね」

誰に言うのでもなく太郎は言った。

以前花子がここに来たのはまだ太郎たちがここに住むまえのことで、二人ともお互いを覚えていないと思っていた。

けれども太郎は花子に言った、
「ここは花ちゃんちなんだよ。だからずっといてもいいんだよ。僕は花ちゃんのお兄ちゃんになってあげるからね」

花子はきょとんと聞いていた。

保育園の友達に妹がいて、それを羨ましがっていることを少し前に聞かされていたことをふっと思い出した。

おとなしく座っている花子のほっぺたに両手でそっとふれながら、太郎は優しく花子に言った。

「ここは花ちゃんちなんだよ」

温かいものがそこにあることを感じて、私はそっと目を閉じた。













ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。