一陣の風
お父さん、
この丘の上のリンゴの木、私が生まれたときにお父さんが植えてくれたんだっておじいちゃんに聞いた。
お父さんがいなくなってしまった後もこの木はずっとここにここにいて、葉を茂らせて、花を咲かせて、実をつけて、季節の恵みを与えてくれる。
大きなカゴいっぱいに摘み取ってもまだまだ沢山枝に実が残っている。
たわわに実った赤い実は青い空に映え、甘い香りを風にのせてその存在を知らせてくれる。
急に向こう側に旅に出てしまったお父さんを誰も引き留めることはできませんでした。
私は長い間悲しい気持ちから立ち直ることができなかったけれど、少しだけ背が伸びて心も大人に近づいてここを離れて、新しい人生を見つけることができました。
つらいことばかりだね。
生きて行くっていうことは。
それでもこうして大人になって自分自身の人生を自分で選んで歩けることはしあわせなことだって思えるようになりました。
ありがとう。
お父さんがどれほど私を愛してくれてどれほど大切に守ってくれていたのかお父さんがいなくなって初めてリアルにわかったなんて本当に恥ずかしい。
ごめんね。
もっともっと早くお父さんが生きてるうちにそのことに気がついて道を選ぶことができていたらこんなに心配させなくても済んだのに。
本当にごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
風が止んだ。
さっきまで心地よく吹いていた風は、ぱたりと吹かなくなってしまって周りは一層シンとした雰囲気になった。
音のないこの場所は昔と何にも変わらない静かな静かな印象で、時間が巻き戻ってしまったような錯覚を覚えた。
リンゴの甘い香りは、今どうしようもない悩みを抱えて苦しんでいる私の心を優しく包み込んで癒してくれるようだった。
風のないこの丘は日差しのおかげで暖かく、厚着してきてしまった私は汗をかいてしまいそうになった。
コートを脱いで、ニットも脱いで、しっかりとした木綿の生地のブラウスだけになった時不意に一陣の風が吹いて体をさっと冷ましてくれた。
お父さん……。
いいえ、ただの偶然よ。
風が崩した髪の形を指先でそっと直しながら、私はその思いつきをそっと打ち消した。
リンゴの甘い香りはまだ優しく私を包んでくれて心の傷を癒してくれる。
ありがとう、お父さん。
空を見上げた。
白い雲、青い空、父の姿は何処にもないけれど全部の中に父がいる。
思い込みなのだけどそういうふうに感じられたから私の心は救われた。
一陣の風は一体何処に行ってしまったんだろう?
空の遠くに? もう見えないところに?
何処だっていい。
何処でもいいからいつまでも、強い力で吹き続けていてくれさえすれば。
この文章は矢野顕子さんの『想い出の散歩道』という歌を聴いて書きました。
読んでくださってありがとうございます。
どうか素敵な年末をお過ごしくださいますように。
ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。