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《創作大賞2024:恋愛小説部門》『友人フランチャイズ』第4話 友人フランチャイズ4028.5


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《第2章 第1節 友人フランチャイズ4028.5》

拝啓、秋山あきやま君。

今、君から貰ってずっと大切にしている『狐の嫁入りきつねのよめいり』を眺めている所だよ。今日の天気みたいに晴れたいのか、雨をふらせたいのか、まるで半端者だった昔の僕と秋山君みたいだなって思い出しながら、今ペンを取っているよ。それと、君の画集買ったよ。デザイナーとして成功しているみたいで、僕は自分の事のように嬉しいな。それにしても、君の見る景色はどうなっているんだい?いつも、君には殴られっぱなしさ。そして、僕達をいつも、気にかけてくれてありがとう。水穂みずほも元気さ。この前なんて、拓星たくせいビールよこせ!ってあの頃と変わらない寝言を言っててね。ずっとどんな夢を見ているのか、たまには起きてる水穂と話したい時もあるんだけどね。こんな小言しか吐かない僕をどうか許しておくれ。とりあえず、君の活躍をこれからも祈り続けるよ。また、手紙書くよ。

 秋山くんへの手紙を便箋に入れると、机の隅に置いてあるカレンダーに目をやる。毎日の習慣で、前日の数字に0.5を足すと、今日の日付の下に4023っと書き込んだ。そして首から下げる鳥と蝶の刻印を施したシルバーのロケットペンダントのカバーをスライドさせ、おはようっと呟く。

 座り仕事が多いのか、それとも、40歳になると誰にでも来るものなのか、痛む腰に手を当て立ち上がると、ビルから放たれる反射光が一つの筋となって、僕の目を掠めた。

 数年前、先住民が住んでいた所をそのままの状態で借りて、アトリエにした。そんな築40年の木造アパートの前に建てられた、高層ビルの隙間から見える虹を眺めていると、茫漠ぼうばくとした時間の流れが、哀愁となって僕の心を小突いて来た。

 思い出と共に胸を通る隙間風に舌鼓を打っていると、隣の部屋から玄関の開閉音が聞こえてすぐに、アトリエのインターフォンが鳴った。

 玄関の扉を開けると、看護師の藤宮 恵子ふじみや けいこさんが、終わりましたよ。っといつもの様に知らせに来てくれた。

 僕は出る時に履いて来た、ゴム草履に足の指を通し、秋の深まるアパートの玄関から踊り場に出ると、半袖では寒く、隣の部屋だからと舐めてカーディガンを羽織っていなかった事を後悔した。

 ふと、いつもの癖で木製の柱についている、黒く焦げた穴に目を落とす。

 このアトリエの先住民だった門番が、水穂が外へ出かけると、1人帰りを待つ間に付けたタバコの跡。

 門番の遺訓いくんが染み付く焦げた穴から目を逸らすと、アトリエの隣の部屋に入る恵子さんの後ろに続き、玄関でゴム草履を脱ぐと、ギシリっと薄くなった床板がくのに気を留めず、台所の棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出し、恵子さんと自分の分のコーヒーを入れ、奥の部屋で鞄の中を探る恵子さんに、インスタントですけど。っと渡した。

 ありがとう。っと恵子さんはコーヒーを受け取ると、鞄の中から取り出したカルテをいつもの様にチェックし、では、小絲こいとくん、確認お願いします。っとこれまで何千回と繰り返した事務確認を行う。

 波森 水穂なみもり みずほ。病名不明っとExcelで体裁を整えられたカルテの概要欄に目を通す。そして僕達への配慮なのか、もともと親族と書かれていた欄を小絲へと書き換えられている場所に、僕は鯱旗シャチハタを押し、恵子さんに渡した。

「今日はね、拓星たくせい花火すっぞ!って寝言を言ってましたよ」っと受け取ったカルテで口許を抑えてクククっと笑い「小絲くん何の事か分かります?」っと聞かれたので「これですかね?」っと僕は押入れから、おそらく20年間は出番を待っている花火セットを恵子さんに見せた。

 すると「水穂ちゃん、これの事言ってたのかなー?」っとこの部屋には似つかわしくないフカフカのベットへ、自分の妹に送る様な視線を転がした。

 このフカフカのベットは、僕が、水穂が夢を見易いようにと色々な所を周って探したもので、自分が使う物とは違って、寝具セット一式全て、材質に拘っている。

 もちろん、色にも拘って、水穂が前に言っていた事を思い出して選んだ。赤いサルビアの花。いつも頭に巻いてた茶色のタオル。いつもこのアパートの踊り場に残ってた香水の名前についてるブルー。大好きなお姉ちゃんが使っているピンクのマニキュア。私を引っ張ってくれた藍色の手。そんな記憶を辿って。

 でも、そんなカラフルなベットの横にある、O2と書かれた黒色の医療用ガスボンベと呼吸器の波形を見る度に、その空間にかもし出される雰囲気にはあまりにも似つかわしくないと、僕は水穂が好きな藍色のシーツに皺を作った。

「もう、今年で22年ですよ。私と水穂ちゃんの付き合い。初めて会ったのは水穂ちゃんが20歳で私が30歳の時。22年の間で話したのはたった2年くらいだけどね、初めて会った日の出来事は今でも鮮明に覚えているわ」

 恵子さんが言うように、僕もまた水穂と過ごした時間は22年間のうちの2年間だけ。水穂が長い眠りに入ったあとも、いつかあの時みたいに、また起きて、拓星っと呼んでくれる日々に希望を抱いていると、いつの間にか20年の歳月が経っていた。

 そして、恵子さんは仕事からの緊張を解いたのか、正座で座る脚を崩し、思い出の中で過ごした水穂との時間を手繰り寄せるように、口を開いた。

「私がね、初めて水穂ちゃんと出会ったのは、診察室から病院の待合室に波森さーんって名前を呼んで、今の夫がいる、診察室に入って来た時なの」

 そう言って、僕と水穂が作り上げて来た関係をずっと見てきた恵子さんは、僕達が想い合っている物は恵子さんにとってはまた違う物だと感じているのか、最近少し皺が目立つようになってきた左手に付けている結婚指輪を、薄いピンクのマニキュアが光る右手で隠して話を続けた。

「普通ならね、診察室に入って来たら、目の前にいる先生と話すじゃない?それなのに水穂ちゃん、目の前にいる夫じゃなくて、後ろでカルテを取ろうとしていた私に向かって、私を介護してください。って言ってきたのよ」「いきなりですか?」
「そう。そう。いきなり。それで、こんな若い子が1人で来て、介護して下さい。って言われたケースは私も夫も初めてだったから、びっくりしてね。それで、夫が気を利かせて私と席を変わってくれて、私が医者の座る席に座って、夫が看護師の座る席に腰を掛けて、この状況は何?って思ったけれど、水穂ちゃんは本気だったのねー。ずっと私を見てたの。だから、どうしたの?って聞いてみたの」

 昔から恵子さんは僕と水穂の事について、思い出話をしていると、いつの間にか語尾のトーンが少し上がるのが癖になっている。

「水穂、説明下手だったでしょ?あっ……とか、んー。とかコロコロ表情変わるし」

「流石!よく分かってるねー。水穂ちゃんの説明が下手なのか、私達が勉強不足だったのか、最初は水穂ちゃん嘘ついてるのかな?って思ったけど、話を聞いてたら、嘘って思えなくてね。水穂ちゃんがその日の最後の患者さんだったから、夫も私も詳しく聞く事にしたの。因みに、あっ……とか、んー……とかの癖は若い頃の小絲くんも同じだからー」

「若い頃の僕の話をされるのは、恥ずかしいですね。それで、水穂はなんて言ったんですか?」

「寝ちゃったら、起きれないんです。って言われたわぁー。私の頭ははてなだらけよー。でも、夫は後ろで睡眠学の論文をパソコンで読みはじめてちゃって……お前、患者さんに何か聞かんかい!医者だろうが!って心の中で叫んだわー」

「藤宮先生の勉強熱心な所、昔から変わらないんですね」

「いやいや、勉強熱心は認めるけど、空気を読んで欲しいって時あるんだからね!──でね、ずっとパソコンを見ていたそんな夫が水穂ちゃんに、1回睡眠状態に入るとどれくらい起きれないのか?何歳からその症状が出るようになったのか?起きてる時に気分が悪くなったり、落ち込んだりする事があるのか?って3つ質問をしたのよ」

「水穂は、なんて言ってました?」

「小絲くんも知ってると思うけど、こう言う風に言ってたわー。10歳の頃から周りの人より、沢山寝るようになって、初めは1日寝続けて1日眠れなくなって、歳を重ねていくと、2日寝続けて1日眠れなくなって、今は5日から1週間寝続けて1日眠れなくなるサイクルです。でも、起きてる時に身体が怠いとか、気分が落ち込むって事はなくて、スッキリしてます。って言ってたのよ。説明下手な水穂ちゃんがセリフのようにスラスラと言ってたから、他の病院で何回も同じ事を言っては、さじを投げられていたのねって、全部話を聞いた日の夜、眠る前に切なくなったわ」

 そう言って、水穂が寝返りを打とうとしたので、酸素マスクの管が水穂に絡まらないように気を配ってくれた。

「ありがとうございます」

「いえいえ、私は水穂ちゃんと小絲くんを支える看護師なので。──それでね、水穂ちゃんがそう言ったら、夫が腕を組んで、んーって考え込むの。医者って患者さんの話を聞いて、色んなケースから消去法を使って、合致した病名をつけるんだけど、当時のうちの病院は、消化器内科と訪問介護だけだったからね。睡眠障害なら心療内科系で畑違いだったのよ。っで、睡眠学の論文を読んでた夫が、この病院では波森さんの症状を診るには専門外でね。今調べてみただけの答えになって申し訳ないと思うんだけど、睡眠に関しての障害って色々とあって、君の症状がどれにも当て嵌まらないんだよって。悔しそうに言ってたわ」

 恵子さんから初めて聞いた、水穂のそんな話。僕は当時のそのシーンを水穂の後ろから眺めるように想像していた。

「言いたい事は言う。言いたい時に言う」っと友人フランチャイズの話をした日、水穂が言ったそんな記憶が頭に浮かんできた。

 昔から芯がしっかりしていた水穂だから、医者から申し訳ないっと誰もが絶望する言葉を言われても、歯を食いしばって、絶対折れなかったと思う。

「そしたらね、水穂ちゃん、こう言ったの。お母さんとどこの病院に行っても、申し訳ない。他を当たってくれ。紹介状書いておくから。って何回も何十回も言われた。でも、私は負けない。最近少し諦めていたけれど、私を昔から強くしてくれて、ずっと心の中で大切にしてた人と、昨日やっと友達になれた。だから私はその人と友達になった瞬間から自分の人生に負けれないって決めた。普通の人が過ごせる時間の365分の1になっても、私は私の1日を過ごしたい。って」

 ほら。やっぱり。水穂はそんな人だ。水穂。悔しいだろ?僕に言い当てられて。反論したかったら起きてこい。あと、友人フランチャイズを契約したあの日の帰り、僕が水穂に感じた違和感はここにあったんだ。

 あの時、君は1人で決心を固めて、恵子さんのいる病院に行ったんだね。色々言い訳を作って君に向き合えなかったあの時の僕を許しておくれ。僕はそう心の中で呟いた。

「私は圧倒されたわ。水穂ちゃんより10個も歳が上なのにね。こんな状況でも強い意志を言える子、どんな人達に囲まれて育って、友達って誰かな?って凄く気になったわー。まー、今だから言えるけど、初めて小絲くんに会った時は、え?これ?って思ったけど」

 ふふふっと笑うと、恵子さんは寝返りを打って、派手に飛び出した水穂の手を、布団の中に入れ、テレビの横にある、遺影代わりの3人の写真に目を落とした。水穂に似た雰囲気を出している、赤いサルビアのネックレスをしたお母さんと茶色のタオルを頭に巻いたお父さん。そして、お気に入りのメイクをして、嬉しそうにこちらにウインクをする門番が写っている。

「僕は、3人の写真を見て、時々、想うことがあるんです。水穂のご両親が門番に紡いできた想いを門番が水穂に注いで、水穂はそれを、いいだろーって僕に見せつけてくれて、僕は沢山変われたと思います。だから、水穂のご両親にはいつかお礼を言わなきゃ。って思う時があるんです。もちろん、門番にも」

「3人とも絶対鼻高くするわ。そうよね。あの時の小絲くんが今じゃ、立派な画家さんなんだからね」

 そう言うと、恵子さんは1杯目のコーヒーを飲み終えた。僕はいつもの様に、2杯目作りますよ。っと言うと、恵子さんのマグカップを受け取り、自分の分も一緒に作る。僕達はいつも水穂の話になると、1杯のコーヒーだけで話が終わる事はないからだ。

 恵子さんに2杯目のコーヒーを手渡すと、また蓋の栓を抜いたように、話しはじめた。僕は水穂の横顔がよく見えるいつもの場所に腰を下ろすと、恵子さんの思い出の世界にいる水穂に耳を傾けた。

「それでね、水穂ちゃんのその時の決心に私、胸を打たれてね。ここで引いたら、看護師人生後悔するって思って、まずはご両親にお話を聞こうと、明日家の人と話したいから、ご両親のいる時間は何時?って聞いたら、お父さんは4歳の時にお母さんは去年亡くなりました。って言われて、じゃー誰か水穂ちゃんの面倒を見てくれる人はいるの?って聞いたら、門番が。って言われて……門番って誰?って正直思ったわー」

「僕も、最初に水穂から門番の事を聞いた時、え?誰?ってなりましたよ。ゴリラゴリラゴリラ門番って何者?って」

「私は、門番くんは女の中の女って感じだったわ」

「僕は男の中の男って感じでしたけど……」

「男の中の男……確かにそうかも。それでね、次の日に水穂ちゃんのお家に行ったの。このアパートにね。そしたらね、今、小絲くんがアトリエにしてる部屋の踊り場にね、全身筋肉まみれの門番くんが立っててね。あっ、骨折られるって身の危険を感じたんだけど、私が大きなカバンを持ってたからか、看護師だって思った門番くんは、水穂の事、よろしくお願いしますって、土下座してきたの」

 門番に初めて会った日の当時の僕は、門番が人に土下座をするなんて想像できなかっただろう。でも、その後に門番という人間を知っている僕なら、その時何の迷いもなく、プライドをかけた門番の行動を理解することができた。

「びっくりしたわ。後にも先にも、人から土下座なんてされた事ないからね。それで、この部屋に入ったの」

 恵子さんはそう言って、思い出に浸るように部屋を見渡す。そして、僕が三角に膝を折り座っているスペースを指しながら「ここにね、1枚お布団が敷いてあってね、そこに水穂ちゃんが眠っていたの」っと心に何か堪えるものがある様子で話を続けた。

「最初、おはよう。って声をかけても起きなくて、それで、肩を叩いても頬っぺた叩きながら耳元で大きな声を出しても、気持ちよさそうに寝息を立てて眠ったままだったから、門番くんに話を聞いたの。そしたら、昨日の夜中から眠りについたから、多分、次起きるのは長くて6日後くらいになります。って言っててね。それでね、それ聞いたあと、私、2人に言っちゃいけない事を言ってしまったの」

 恵子さんはそう言って、言うに言われぬ暗澹あんたんな表情を水穂が眠るベットへ落とす。

「職業病なのよ。患者さんが反応しないと、アドレナリン出ちゃって、感極まって門番くんにこうなる前に、なんで病院に連絡しないの?って強く言っちゃって。そしたら、門番くんが、何件も連絡しました。救急車にも何度も乗りました。症状の説明も何度もしました。でもいつも同じ形だけの診察をして、疲労ですね。っで、終わって……いつも水穂が起きたら病院から退院させられました。って、言ったの。その時の門番くんは全てを受け入れてる様子だったわ。もう無理なんだって」

「でも、昔も今も、恵子さんが付いててくれてるから水穂も門番も絶対良かったって思ってくれてますよ」

 当時、僕はこんな事があったなんて知らず、自分の所為で蚊帳の外にいた。その時を知る恵子さんの気持ちにそんな安い言葉しか掛けれない今の僕を作った過去の自分を、責めたくなってしまう。

「それで、直ぐに病院に連絡して、2人とも連れて行ったわ。それで、夫に説明して、無理言って水穂ちゃんに付きっきりで看病してね。……なんかあの時は、この2人には私しかいないって思ったの」

 恵子さんはコーヒーを飲み終わると、台所にマグカップを片付けた。そして大きく広がった、しんみりとした空気を急いで風呂敷に包む様に「その後は、水穂ちゃんが起きて、抱きしめて、今日から私が、あなたを介護します!だから私をお姉ちゃんと思いなさい!って、高らかに宣言して、今って感じかな」っと、明るく話をまとめた。

 そして、水穂のお腹辺りの布団を捲り、胃瘻いろうの周りが清潔に保たれているかを確認してくれた。眠り続けている水穂は口からご飯を飲み込む事ができないので、恵子さんが1日に2回、胃瘻からゼリー状のご飯を入れてくれている。

「よし、異常なし」

 水穂に聞かせるように呟くと、バックからスケジュール帳を取り出し、次に伺う家の確認を始めた。そして、「ヤバい。今日も話し過ぎちゃった。急がなきゃ」っと早々と帰り支度を始める。これがいつもの光景。そして、「余裕を持って行動したいのにね」っと、決まり文句。

 「んじゃ、次は晩御飯の時に来るから、多分19時くらいだけど、大丈夫?」っと水穂の2回目の胃瘻へご飯を入れる時間の確認してきたので「大丈夫ですよ。アトリエにいるかもしれないので、来たらインターフォンを鳴らしてください」っと玄関まで恵子さんを見送る。

「右腰がいたいのかな?」

 ふと、僕が玄関で恵子さんを見送る時に、痛む腰を自然と庇っていたのか、恵子さんはそれにすぐに気付いた。

「そうですね。多分、最近冷え込んで来たからだと、思います」

「ただの腰痛って舐めたら駄目よ。内臓から来る痛みもあるんだから……来週、時間取れる日ある?病院の予約取っておくから」

 半ば強引に話を進める恵子さんは、お節介な所もあるのだけど、ほぼ一人暮らしの様な僕にとってはそんな所が嬉しかったりする。

「なら火曜日はどうですか?」

「なら、10時半に水穂ちゃんを看に来る予定だから、私が小絲くんと入れ替わって病院に行けるように11時に予約取っておこうか」

「宜しくお願いします」

 僕がそう言うと「任せろ」っと得意げに鼻を鳴らし、スマホのアプリを使って病院に予約を入れてくれた。最近は何でもスマホで出来るようになったものだなっと感心している内に、「じゃ。また後で」っと恵子さんは自分をせかすように行ってしまった。

 恵子さんのパンプスの鳴る音が遠くなり、アパートの前を通るバイクの音が止むと、静かになった部屋の中から呼吸器の発する音と水穂の寝息がこの空間の主役になった。

 この生活音が当たり前になっている、奥の部屋に吸い込まれると、水穂の頭を撫でた。これが、いつの間にか染みついた、いつもの行動。

 そして、僕は、水穂のお母さんとお父さんと門番の写真が飾ってある3段ボックスの2段目の棚から、水穂が趣味だと言って、ずっと書き溜めていた夢日記を取り出し、思い出を手繰り寄せるように開いた。

 楽しい夢や嬉しい夢を見た時は大きな文字にハートマークをあしらったカラフルなページ。悲しい夢や怖い夢を見た時は小さな文字に句点のモノクロのページ。感情が表に出やすい水穂らしいそんな夢日記。

 なぜ水穂が僕に『1日×かける30分』という条件付きの選択をしなければならなかったのか。と言う事を気づかせてくれた夢日記。水穂に会いたくなったら開く、そんな水穂の夢の中の物語。

 夢日記を読んでいると、ふと水穂が深い眠りにつく前の最後の記憶を思い出す。2人で僕の大学の図書館に忍び込んだあの日。

「これ、見つかったら不法侵入で私、牢屋のベットでずっと寝るのかな?」ってケラケラ笑ってたあの笑顔。

 あの笑顔には、ずっと眠ってしまったらという、死にも近い恐れを内在させた不安があったのだと思う。その時の水穂の気持ちを考えると、心臓を内からナイフで刺されている様な感情に苛まれた。

 そんな事はお構いなしに、僕の横で頬を掻いてスヤスヤ眠る水穂を見ると、人の気も知らないでっと、胸の痛みが消えて行った。

 そして、思い出に浸った僕は、痛む腰を持ち上げ、枕元に水穂の枕元に今で言うガラパゴス携帯を置くと、メモ用紙に「隣の部屋にいるので、起きたら連絡下さい。拓星」と書き、携帯の上からテープで貼り付けた。これはもし、僕がアトリエにいる時に水穂が起きて困惑しないようにと、20年間毎日欠かさずしている事。

 それから僕は、自分のスマホを握りしめ、12月にフランスのオルセーで開催する個人展示会に出す作品の選出作業をする為、水穂の眠る姿に後ろ髪を引かれながら、アトリエに戻った。


《つづく》


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