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1-16 「模倣する受験指導」から考えた教育(後編)

ー 逃げ回っていたボクが対峙してみた ー

●休校があけて

 その後,6月初旬から学校がスタートしました。課題に関しては,予想以上に熱心に取り組む子もいれば,まったくやらない子もいました。結局はいつも通りの形で,1年生は《もしも原子が見えたなら》(絵本版),2年生は《生物と細胞》,3年生は《トルクと重心》のエッセンスを紹介しつつ,受験物理をコツコツ…/ でスタート。教科書授業に関しては相変わらず模索中ですが,仮説実験授業と受験指導<物理>に関しては,模倣の存在のおかげで,創造的とまではいきませんが,キラクに,気持ちよく授業を進めることができています。
 仮説実験授業は今まで通りですが,受験指導に関しては,動画リストのおかげで,「あと何時間でこの単元/教科書授業 が終わるか」がわかるので,「この単元は<吹き矢の力学>をやってから」とか,「センター模試が来月あるけど,その範囲は●月●日までに終わっていそうだな」という見通しが立つことができるようになりました。もちろん時数は多少前後したりするけれど,「受験指導どうしよう…。まぁ高校生が喜ぶことをやるか!」と時数に対して不安要素を残しながら過ごすのは極力少ない方が精神的に良さそうです。

 また,メンタル面でちらほら学校を休むのも今年の受験組の特徴。その際に,都度ボクが教えていたら身が持たない気がします。それに,受験指導に想いを寄せすぎると「なんで受験を控えているのに休みがちなんだオマエは!」なんてキモチになったりするかも(笑)。なので,生徒が休んだ際には動画で100%補完できるようにしています(といっても,ただ「じゃ,休んだ昨日の分は動画見といて」って言うだけですが 汗)。
 そんなカンジで受験指導と向き合っているボクです。今後の方策として,「プリントが全部完成したら,製本して年度はじめに渡せば,都度印刷しないで済むな」とか,「学校休む時は,代わりの先生に動画を見せてもらえばいいな」など,もっとキラクに授業を展開できないかとも考えています。

●教師の役割は?

 同僚の先生とそんな話題をすると,「それじゃあ教員はいらなくなりますね」とか「オレは学習補助の動画紹介なんてしたくない。教員の役割がなくなる」といった意見をもらいました。果たしてそうなのかな?

海老澤さんは,教師の役割(学校の役割)について,紙面の中で下記のように書いています。

今の学校では,「問題を与えられ,それに正しく答え,もし間違っていたら正解を覚える」……そんなことの繰り返しばかりみたいです。「自分の頭を使って考える」というよりかは,「人の考えたことを効率よく覚える」といった感じです。これでは他人の頭に支配され,ただただ従順な人間になってしまうんじゃないかな,と不安になります。自分で考えるからこそ間違える。間違えることから見つかることの方が多いはずなのに。
 目的地に最も効率的に早く着くことだけが目的なら,最も良いかもしれない。でも,周りの風景を見たり,風を感じたり,途中で寄り道をしたりした方が,よっぽど心に残り,たのしく目的地に到着できる。いや,もっと先に行きたいという気にもなるのではないか。学ぶ楽しさってこういうことなんじゃないかな?

この文章を読んで,「そうだよなー」と思いつつも,足りない気もします。たとえば,ボクの目的地,「子どもに歓迎される授業方法を勉強しよう」対して,先輩教師や外部講師,研究会仲間から「寄り道もしましょう」「すぐに答えを見つけないで」などと言われても,ボクは困っちゃいます。そういえば,最近見た記事でも,似たような話をされていました。

…(略),とにかく生徒たちが自分で考えているかどうかに焦点を当てていたら、自分のちょっとした発言で一気に子どもたちが考えなくなることや、僕のやり方を真似しようとすることが分かったので、自然と答えを与えなくなりました。こういう取材とかまさにそうなんですが、教育ってほとんど相関関係がはっきりしないので、それっぽく言うと信頼されてしまうんですよね。このやり方が正しいんだ!と。でもそれが嫌で。そもそも教育にノウハウなんてないんです。教育は目の前の生徒に向き合って、観察して、これと思ったものを試してみる。失敗してよくて、それの繰り返しだと思います。答えなんて、ないです。

(Web:『先生の学校』-インタビュー:井本 陽久-)

試行錯誤のエネルギーが持てればよいのだけれど,そんな余裕がないと,つい「最近の子どもは…」とか「この地域は…」など相手を批判してしまいそうに…。

 話は変わるのですが,現在の学校で年2回行っている「授業アンケート」で,「授業とあまり関係がない社会関連の動画を見る→ひたすら一方通行の講義をする→数分後に小テストをする」を繰り返す地理の先生に対して,何件も生徒から「どうにかして欲しい」という感想が書かれていました。生徒のアンケートはほぼ全文,職員会議で配られますが,肝心の地理の先生はそれをまったく見る様子もなく…(後でこっそり見ているのかもしれないが)。でも,この先生自身が悪い…というより,具体的な方法を提示しないで「改善しよう」「試行錯誤しよう」「いろいろ遠回りをしよう」と言っても,シンドイんじゃないか。

●具体的な手立てがあってこそ

 その点,仮説実験授業は具体的な手立てをボクらに提供してくれます。雑誌の紙面でも,海老澤さんが初回の授業で《爆発》を高校生たちと楽しんだ様子が紹介されていました。
 そんなボクが考える「教師の役割」は,仮説実験授業に出会わせてくれた小原茂巳さんが教育学部の大学生に伝えていた下記の言葉と同じキモチ。

小学校・中学校は義務教育ですからね。「<意欲>がなくても無理矢理座らされている子ども達」を相手にするのが,僕たち教師の<商売>です。
  だから,「<意欲>が無い子ども達がいてあたりまえ」と思っていた方がいいですね。子ども達に対して,「意欲があるのがあたりまえ」と思ったら,<意欲>がない子どもを見た時に,「なんでお前,意欲がないんだ!」「やるがないんだ!」「その態度はなんだ!」という風に,ムカついてしまいますから(笑)。でも,それは変な話で。教師の役割として一番大事なのは,「興味を持続できること」=「<意欲>を持ってもらうこと」だと思うんですよね。
  でも,これが中々難しい(笑)。難しいけれど,それを実現させる事が,皆さんが目指す教師の<商売>ですからね。そのために,教師が子ども達に何をしたら良いのか,それをみなさんと一緒に考えていければいいなと思っているんですよ。   

(明星大学・講義『理科』より(講師・小原茂巳))

もし,受験する生徒を「必要にせまられている」からといって,「すでに意欲を持っている」と解釈してしまうと,同僚教師みたく,「動画を紹介したら,自分たちの役割なんていらないんじゃないか」と思えるのかもしれません。でも,受験しない生徒は(いや,受験する生徒だって),意欲はだいぶ持っていないわけで…。

 また,「教師の役割」なんてことを考えると,もうひとつ思い出すのは板倉さんの下記の文章です。

●すぐれた文化遺産を伝える仕事
 教育というものは<これまでの優れた文化遺産を次の世代に受け渡す>という仕事です。その「優れた文化遺産」というものでつまんない勉強しかできないとすれば,これは<優れている>といえるでしょうか。「退屈でしょうがない勉強をしなければ優れた文化遺産が受け継げないとはいったいどういうことか/そんなものは優れた文化遺産とはいえない」というのが私の考えです。…(中略)…,昔からある教育の問題を根本的に解決していくためには,根本的に学問そのものを作り変えることです。つまり教育がうまくいかなかったのは,「専門家だけがわかればいい」というふうに作られていた学問をそのまま学校教育にもちこんだからです。だから,ふつうの人間がわからなくなるのは当たり前です。
 ふつうの人間に教えるためには,学問自身を変えることによって<楽しくなるような文化>をつくることです。<すばらしい文化を受け継ぐ>ためには,すばらしい文化を<ふつうの人間が受け入れやすいような形>にしなければなりません。
 ところが,これまで各教科の普通の研究会では,大学の先生なんかが来て「物理学はこうなっています/化学はこうなっています/生物学はこうなっています」などと難しいことをいって,そのことについて知らない現場の先生を「わかんないなぁ」と実感させるようなことがほとんどです。しかし,学校の先生も納得させられない物理学や化学,生物学は間違っています。科学の専門家としては間違っていないかもしれないけれども,<大衆が受け入れる学問>としては間違っているのです。…(中略),「<人間的に学ぶ>ということの楽しさ」というものを軸にして教育を作り直すことです。「わかる」というのは,<わからせよう>という人たちがいるから他人が主人公です。「楽しい」というのは,自分自身が主人公です。

(『たのしい授業no.403』 -「人間的に学ぶ楽しさ」を軸に学問をつくりかえる-板倉聖宣)

この文章を改めて読み返すと,「まだまだボクの仕事は終わりそうにないな,飽きさせてくれないな(アタリマエ)」なんて思ったり,「受験指導なんしいる場合じゃないな」と思うのです。

 久朗津家でサークルをした(5月?)帰りの車,和泉さん(北海道・中学校)と車内で近況報告しあった際,和泉さんは下記のようなことを語っていました。

「オンライン授業が進んでいく中で,対面での仮説実験授業の価値がより際立っていくはずだ。そんな中で,今後のヒントは犬塚さんがやっていたルネサンス高校での仮説実験授業だとボクは思う。ルネサンス高校の生徒たちは,基本はオンライン動画や本を読んでのレポート提出によって単位を取得している。対面授業を通して科学を学ぶ機会は年に数回・数時間程度。そんな限定的・特殊的な状況の中で犬塚さんはどうやって授業運営をしているか,改めて勉強したいと思う」なんて語っていた(多少カッコよく誇張している)。

ボクも同感です。オンラインで学ぶ機会が増えていく・塾に行かなくても学びの機会が多数ある現在において,五感を感じながら,集団で学ぶスバラシサを味わいながら,自らが科学の法則を見つけていく。そんな授業は仮説実験授業以外,ボクは知らない。他にあれば教えて欲しいけれど,見つかる見込みはない。もしかしたら,仮説実験授業をオンラインで実施していく必要性にせまられるかもしれないけれど,その時はその時考える。正しい知識をただ伝えるだけの授業は,対面授業でもオンライン授業でも,たっぷり模倣させていただく。今は仮説実験授業を対面でできるシアワセを噛みしめながら,学ぶたのしさを高校生たちと一緒に見つけていきたい…。そんなことを考えるボクです。

●(近況) 

 最近,理科室に3年生が放課後,数人集まるようになってきました。「履歴書を教室以外で書きたい」だったり,「バス待ち」だったり,「雑談」だったり…。

 そんな中,ある女子高生2人がハマってるのは,《虹と光》で使った「シャボン玉」と「一眼レフカメラ」。放課後,室内や校舎外で,ずっとたのしんでいます。「エモい写真がたくさんとれる」とのこと(笑)。

そういえば,前文で引用した井本さんのインタビュー記事の中で,学校の目的についてこんな言葉を残しています。

学校は目的を持たない方が良いと思っていて。目的を持ってしまうと、それに必要か不必要かという目でしか見なくなってしまうと思うんですよね。
学校以外の環境に出て痛感したのは、学校の価値は①人がたくさんいて、②時間がたくさんあり、③場所がふんだんにあること。
一人ひとりが安心して自分を出せる状況にさえあれば、3つがそろっているので、どんな風になるかは分からないけど、子どもたち一人ひとりの幸せに向き合えると思います。

(冊子『先生の学校』より)

 理科室で過ごす放課後の時間は,学問でもなければ教師の役割でもなんでもないだろうけれど,今働いている学校は,同世代がたくさん集まっていて(①),高校生たちはまだ仕事に追われる状況じゃない中で(②),たくさんの教室や走れる芝生がある(③)…。そんな環境の中で過ごす時間は,やはり<たのしい時間を過ごしてもらいたい>と思うのでした。


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