誰しも生きる価値があるという事実を受け入れられない人

「人は誰でも生きる価値がある」と言われたら、あなたはすんなり受け入れられるだろうか。

この手の言葉はメンタルヘルス関連の場でよく見かける。
しかし精神を病んだ人は、「私なんて誰にも必要とされていないし、本当に価値がないんです」と受け入れられない人も多いように思う。


結論から言うと、「誰しも生きる価値がある」のは事実だ。


ただしその解釈には落とし穴がある。


私は高校時代と大学時代、成績が悪く、運動が全くできず、暗くて友達も1人もいない、いい所がまるでない生徒だった。

それで高校2年生の時に初めて精神科にかかった。
学校では何の価値もない生徒だが、精神科医からすればお金を落としてくれるお客さんである。

いじめられている人にももちろん価値がある。いじめている人を楽しませているからだ。
周りの人からしても、その人がいじめられているおかげで自分がターゲットにならずに済んでいると考えれば、やはり価値がある。

「障害者はいなくなった方がいい」という思想で、施設で多くの障害者を殺した人もいるが、障害者の介護をすることで生計を立てている人がいるのも事実だ。


しかし「誰しもが生きているだけで価値があるなら、じゃあ生きていけるのか」と言われたら、それは違う。

いじめられている人が「いじめられることでみんなを楽しませることができるならそれでいい」と思うはずがないだろう。
いじめられている方は搾取されるばかりで何の対価も得ていない。

価値を生み出すことと、生み出した価値の対価を得ることは必ずしも結びつかないのだ。


「誰しも生きる価値がある」という言葉は、字義通りには解釈されていないのではないだろうか。

実際は、価値があること自体にとどまらず、「生きる価値がある→人に愛される→自分が幸せになる」というように、価値を生み出した上で、生み出した価値の対価を得られることを前提に捉えられることが多いように思う。

対価を得るところまで達しなければ本人には何のメリットもないので、当然といえば当然だろうが。


実際、この解釈でも大半の人は困らない。世の中の大半の人は、人を不快にさせない程度のコミュニケーションが自然に取れて、邪険に扱われない程度の容姿に恵まれていて、世の中的にそこまでハードルが高くないとみなされている仕事はこなせる程度の能力が生まれつき備わっているので、特別な努力をしなくても、つまり生きているだけでそれなりに充実した生活を送ることができるからだ。


しかしあくまでも「大半」の人なので、「そうじゃない」人も中には存在する。

生まれ持った能力が低すぎて、友人や恋人ができない、低収入の職にしかつけないなど、手に入る対価が少なすぎる人だ。

しかもそういう人は、意地悪な人の攻撃のターゲットになり、精神的に搾取される可能性が極めて高い。生きているだけで半端なくエネルギーを消耗する割には、得られる対価が極端に少ない。


そういうわけで、「誰しも生きる価値がある」というのは客観的に見れば事実だが、人によっては全く響かない言葉なのである。


「あなたにも生きる価値がある」と言われても素直に受け入れられない人には、心当たりがある話ではないだろうか。

生きる価値があろうと、生きるに値するだけの対価を見出せなければ、生きる意味はなくなってしまうのだ。

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