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自然な頑張り方を知れた僕はきっと運がいい。

僕は運がいい。

長期インターン先に僕の親ほどの年齢の社員さんがいて、立場も経歴も全然違うけれど、考え方の方向性がなんとなく似ている気がして作業の合間によく雑談をしている。

その時社員さんと話していたのは、「努力」という言葉についてだった。

社員さんは最近宮崎駿さんや藤子・A・不二雄さんの生い立ちをまとめた本を読んだそうで、こう口にした。

「大きな成果を挙げた人って24時間仕事してたり、側から見たらとんでもない努力を何年も積み上げているように思えるけど、実際には彼らはその間楽しくてしょうがないんじゃないか。結果を求めているんじゃなくて、その過程自体を全力で楽しんだのではないか」

それを聞いて、僕は自分の大学受験を思い出した。もちろん日本を代表する映画監督や漫画家と自分とではスケールが違いすぎるが、僕は大学受験を通して「努力した」という感覚を感じたことがない。感じたのは、「楽しい」と「頑張った」だった。

大学受験の話

僕はそこそこの成績でそこそこの高校に入った。高校でもテスト前にそこそこ勉強してそこそこの順位を取る、という感じで、勉強よりも部活や友人との遊びを楽しんでいた。

そんな僕に、高校二年の夏に転機が訪れた。当時仲良くしていた友人が突然「今日から俺は本気で勉強する」と言い出したのだ。

彼は基本的に飽きっぽい性格だったので、冗談半分に聞き流していたのだが、その日から彼は本当に本気で勉強を始めた。彼と一緒に過ごすことが多かった僕も、自然と彼の勢いに巻き込まれることになった。

夏以降、部活以外の時間は勉強していたし、部活を引退してからは文字通り起きている時間はずっと勉強するようになった。秋頃には勉強仲間が4人に増え、同じ問題を解いて解答を見せあったり、得意科目を教えあったりという習慣を受験期までずっと続けた。

ある時から現代文のおじいちゃん先生が僕らを気にかけてくれるようになり、時にはつきっきりで勉強や人生相談に付き合ってくれた。

当時の僕らは、「〇〇大学に行きたい」とか「周りの奴らに負けたくない」みたいな目標や競争心があったわけではなく、むしろ大学はどこでもいいと本気で思っていた。そんなことより、仲間と机を突き合わせて勉強したり議論する時間が本当に楽しかったのだ。

受験を終えて、仲間のうち2人は志望校に合格し、2人は滑り止めの大学に進学した。卒業式後に集まった時、こんな話が出た。

「また受験期に戻りたいな」

その時僕らが抱いた感情は、まさしく「がむしゃらに頑張って楽しかった」だった。辛かった、我慢した、努力したという感情は全くと言っていいほどなかった。

自然な頑張り方

この話をすると、インターン先の社員さんに言われた。「若いうちにそういう頑張り方を知れてラッキーだったね」と。

努力と頑張りの違いをあえて挙げるならば、努力は目標のために自制しながら走り抜くイメージなのに対し、頑張りは過程を全力で楽しんでいたら自然とうまく回っていたというイメージだと思う。

ゴールを設定して、自分を縛って努力することを否定するわけではない。受験のように長くても数年の勝負ならむしろ効果的かもしれない。でも人生の中で、努力しか知らないと辛い気がする。

成長するためにはコンフォートゾーンから抜け出せとか、誘惑を遠ざけろと語る人に会ったことがある。

でもそれは自然でないと思えてしまう。確かに一歩踏み出すことは大切だが、それは無理やり踏み出す一歩ではなく、然るべき時に然るべき人に出会って自然と踏み出す一歩のはずだと僕は思う。


高校を卒業してから一度だけ、母校に遊びに行ったことがある。その時に例のおじいちゃん先生とお話をしたが、翌日こんなメールが送られてきた。

昨日話しておきたかったことが一つだけ。大学ではいろいろな分野の教養や人と接しているでしょうが、そこから何か自分の気になるもの、こちらを学んでみたいなと思わせるものを探ってください。

これまでも興味があったことかもしれませんし、今まで思いもしなかった分野が突然気になり始めるかもしれません。そんなものが現れるか否かが、大学生活最大のポイントだと思います。

もちろん無理にそんなものを見つける必要はありません。多くの学生は特に興味を引くものに出会わず大学を卒業していくのですから。ただ君は何かに出会って、そちらに一人でとぼとぼ歩いて行くのが似合っている気がします。

迷える期間は限られていますから、そんな時間を大切にしてください。

高校のおじいちゃん先生

なんか、いい人に恵まれすぎている気がする。縁を大切に生きていきたい。

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