見出し画像

リシュリュー枢機卿の裏切りと国益

今回はアルマン・ジャン・デュ・プレシーこと、フランスのリシュリュー枢機卿についてです。リシュリュー枢機卿は「三銃士」の悪役として有名です。

画像2

リシュリュー枢機卿は聖職者であり、17世紀にフランスの宰相を務めた政治家でした。リシュリュー枢機卿は確かに悪役に相応しい人物でしたが、近代の国際秩序の基盤を作った人物でもあります。

宗教対立と神聖ローマ帝国

リシュリュー枢機卿がフランスの宰相についた1624年、隣国の神聖ローマ帝国では、ルターの宗教改革によりカトリックとプロテスタントが対立していました。そもそも神聖ローマ帝国は「神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもない」と言われていました。帝国と言うよりは、多数の諸侯の寄せ集めのような状況にあり、帝国への帰属意識は希薄でした。

画像1

神聖ローマ帝国はカトリックだったので、ハプスブルクの神聖ローマ皇帝カール5世はプロテスタントを弾圧しました。しかし、プロテスタントの諸侯が多く、結果的に宗教の自由を認めざるを得ませんでした。

しかし、宗教の自由を認めた結果、帝国内にカトリックとプロテスタントの諸侯が乱立し、摩擦を生みました。そして、宗教対立から戦争が始まります。

リシュリュー枢機卿の裏切り

フランスはカトリックの国であり、当然ながら神聖ローマ帝国に与すると思われていました。しかし、フランスの宰相であったリシュリュー枢機卿は、プロテスタント側に味方することを決断します。これは明かにカトリックへの裏切りです。当時の宗教観念から言えば、あり得ないことでした。

では、なぜリシュリュー枢機卿はカトリックを裏切り、プロテスタント側に味方したのでしょうか。それはリシュリュー枢機卿が宗教的正義ではなく、国家の利益を優先したからに他なりません。

神聖ローマ帝国と国境を接しているフランスにとって、神聖ローマ帝国は深刻な脅威でした。さらに、ハプスブルク家のスペインと、スペインに支配されていたイタリア北部の都市国家やネールランドもあり、実質的にフランスはハプスブルク家の領地に囲まれていました。

画像3

したがって、ハプスブルクの神聖ローマ帝国が内紛で弱体化することが、フランスの国益に繋がっていたのです。もし、フランスが宗教上の理由で神聖ローマ帝国に与していれば、神聖ローマ帝国内の内紛は早期に解決されていたでしょう。しかし、内紛が解決された場合、強大な神聖ローマ帝国が復活し、フランスにとって安全保障上の脅威になります。だからこそ、リシュリュー枢機卿はカトリックを裏切りプロテスタント側に付くことで、神聖ローマ帝国の弱体化を図りました。

長期化する戦争

リシュリュー枢機卿は神聖ローマ帝国内の戦争に介入し、戦争の長期化を図ります。戦争が長引けば、神聖ローマ帝国の弱体化に繋がるからです。実際に10年、20年、30年と、あまりに長く続いたこの戦争は、その戦争期間の長さが戦争の名称になります。それが「30年戦争」です。

戦争により、神聖ローマ帝国内の人口の3分の1が犠牲になりました。リシュリュー枢機卿の狙い通り、長く続いた戦争により、神聖ローマ帝国はすっかり弱体化しました。そして、「帝国の死亡診断書」と呼ばれるウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国は実質的に終焉しました。(その後も神聖ローマ帝国の名前は存続します。ウェストファリア条約は現在の国際秩序の基盤を築きました。詳しくは下記の投稿をご覧ください。)

裏切りの大義

フランスの大多数はカトリックであったことから、リシュリュー枢機卿の裏切りは当然批判を浴びます。そこでリシュリュー枢機卿は二つの大義を説明します。

・カトリックの繁栄に帰結する

リシュリュー枢機卿は、プロテスタントを一時的に支援することが、最終的にカトリックの国家であるフランスの発展に寄与する。だから正しい、と主張します。つまり、「手段は目的を正当化する」という主張です。

・個人の救済より国家の存命

リシュリュー枢機卿は、個人の救済より国家の存命を優先しました。リシュリュー枢機卿は、下記のように述べ、個人より国家の存命を優先すべきだと述べています。

「人間の魂は不滅のものであり、その魂の救済は来世にある。」「国家は不滅のものでない。したがって国家を救済する時は、現在か、あるいはもう永久に来ないかのどちらかなのである。」

国家理性

リシュリュー枢機卿は、宗教や道徳ではなく国益を最優先に考えました。この考え方を「国家理性(レーゾン・デタ)」と言います。

もともと中世ヨーロッパではキリスト教の考え方が国家運営の背景にありました。世界は天国を映す鏡として考えられ、天国が「唯一の神」によって支配されているように、世界も「唯一の皇帝」によって支配し、世界の教会も「唯一の教皇」が支配すべきだと考えられていました。

しかし、リシュリュー枢機卿はそれまでのキリスト教を基盤にした考え方を否定し、国家こそが至上の存在であると定義したのです。それが「国家理性」です。「国家理性」という概念はもともとイタリアで生まれましたが、実現したのはリシュリュー枢機卿でした。この考え方はウェストファリア条約の「国民主権」にも繋がります。

また、「国家理性」は副産物として生まれたのが「バランス・オブ・パワー」という概念です。

バランス・オブ・パワー

リシュリュー枢機卿は、宗教や道徳よりも国家の国益を優先しました。それが人の道に合っていたかは別にして、その後の200年にわたるフランスの繁栄の基礎を気づいたことは事実です。また、リシュリュー枢機卿はヨーロッパのバランス・オブ・パワーのキッカケを作りました。(以前の投稿でも「バランス・オブ・パワー」について取り上げました。)

神聖ローマ帝国に対し、リシュリュー枢機卿はプロテスタントの国と同盟を結び、さらには異教徒であるイスラム教のオスマン帝国とさえ同盟を締結しました。そこに宗教上の理由や道徳的理念はなく、ただハプスブルク家と神聖ローマ帝国の弱体化が目標です。当時は「バランス・オブ・パワー」という概念はありませんでした。純粋に国家理性に基づき、自国の国益を追求した結果、リシュリュー枢機卿はバランス・オブ・パワーに則った政策を選択しました。

リシュリュー枢機卿は悪役

リシュリュー枢機卿の考え方は、道義を無視しており、人の命を軽く見ています。当時の倫理観から見ても相当な悪人だと言えるでしょう。三銃士の中のリシュリュー像も間違っていません。リシュリュー枢機卿の死を知って、教皇ウルバン8世は次のように述べています。

「もしも神が実在するのならば、リシュリュー枢機卿は神の尋問に答えなければならないことが多々あるだろう。もしも実在しないのならば・・・さて、彼は成功した人生を送ったことになる。」

しかし、個人の道徳観と国家の道徳観は違います。個人の道徳観で言うと、リシュリュー枢機卿は悪人です。自らの宗教を裏切り、意図的に隣国を血の海にしました。しかし、リシュリュー枢機卿が200年続くフランスの繁栄を実現し、近代の国際秩序の基礎を作ったことも事実です。

政治は非常に複雑です。素晴らしい善行をしようとして最悪の結果になることもあれば、悪行をして最善の結果をもたらすこともあります。(「ウィルソン大統領の国際連盟」と、「リシュリュー枢機卿のヴェルサイユ体制」を比較すればよく分かります。)それが政治の難しさです。ヘンリー・キッシンジャーはリシュリュー枢機卿の業績について次のように評しています。

「リシュリューのなしえた偉業は、彼が中世的な道徳や宗教の束縛を投げ捨てた唯一の政治家であったからこそ達成されたのである。」

国益を追求する社会

リシュリュー枢機卿の道徳や宗教よりも国益を最優先におきました。その結果、どうなったのでしょうか。他国も同様に国益を最優先に置くようになったのです。キッシンジャーは上記のリシュリュー評の後に下記のように述べています。

リシュリューによりはじめられた世界においては、国はもはや道徳律によっては抑制されないものとなった。もしも国益が最高の価値を持つのであれば、支配者の義務は領土を増大し、栄光を増進することである。

リシュリューは「国家理性」に基づき、フランスに繁栄をもたらしました。しかし、しかし、国益を最優先におく考え方は、際限のないパワーの追求に帰結します。リシュリューの死後、フランスではルイ14世が自国の国益を追求し、ヨーロッパの支配を図りました。しかし、際限なく自らの国益を追求したフランスは、イギリスの巧みな外交の前に失敗します。

そして、今度はイギリスが不反フランス同盟を基盤として、ヨーロッパにおけるバランス・オブ・パワーを達成するのです。次はイギリスについて投稿したいと思います。

よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは活動費として活用させていただきます。