第18回角川全国俳句大賞応募と俳句私論

 さくじつ、10月31日に締め切りをむかえる「第18回角川全国俳句大賞」へ自由題2句と題詠(あらかじめ決められた題によって創られた詩歌)1句とを応募いたしました。

 自由題の1句目は、

 揚花火欄干(らんかん)にハイボール缶

という句で、今年の8月5日、大崎市の「ひまわりの丘」へ訪れたあと、コロナ禍後4年ぶりの通常開催となった仙台七夕花火祭へ赴いた夜に詠んだ句です。
 この句は、俳句という575・17音字の制約のなかにあって、2句目3句目、7・5の「欄干にハイボール缶」において「句またがり(一つの語が二つの句の切れ目をまたぐこと)」を活用した一句となっており、その詩想としても自然な「客観写生」による小粋な色気の感じられる、個人的にもお気に入りの一句です。音韻的にも、

 揚花火(i)欄干に(i)ハイ(i)ボール缶(n)

という「i音」を重ねたところで、3句目(結句)の「缶」の「n音」にて、ゆったりと幕が閉じられるような構成となっており、「自然な調べ」が生まれているかな、と思います。

 自由題の2句目は、

 小さかる野外フェス立ち寄りて月

という句で、こちらは今年の10月22日に、礼拝後に私とオーストラリア人の教会員、友人が牧師夫妻のご自宅へと招かれ、おいとましたあとに立ち寄った、西公園での小さな野外フェスティバルにて詠んだ句です。
 この野外フェスティバルには、はじめは寄るつもりがなく、そのまますぐそばの大町西公園の地下鉄に乗って帰ろうとしていましたが、つるべ落としの夕刻に小さくにぎわう野外フェスティバルのあかりの手招きを受け、その手招きにいざなわれるように足を踏み入れました。そうして、友人とぶらっと一周したところで、空を見上げては駆け巡る、ふと目にした「月」の「をかしさ・エモさ」、「小さな野外フェスティバル」を契機として、秋の季語である「月」をしみじみ眺め、「秋」を想い、「今年の秋」をも生きることのあたう幸せを想う⋯⋯こうした「なにげなく、小さなようであって、じつはとても大きな幸いを享受しているのだ」という「気づき」が得られるのも、俳句の醍醐味だと思います。
 そしてこちらの句も2句目3句目の「野外フェス立ち寄りて月」において「句またがり」を活用し、3句目の語末を「月」という季語による「体言止め」にてコンパクトにまとめることの出来た句で、「季語を信頼する」ことが出来たと思います。また音韻的にも、

 小さかる(u)野外フェス(u)立ち(i)寄り(i)て月(i)

という「u音」と「i音」によって「音楽的な調べ」も生まれていると思います。

 最後に題詠の句は、今年のお題が「『光』の文字を入れる」ということだったので、昨年の11月24日のカフェでの勤務中に詠んでメモ書きしていた

 輝きのティースプーン冬日影

という句を

 光彩やティースプーン冬日影

という句に、「輝き」を「光彩」という語に推敲し、昇華したものとなりました。

 自由題1句目の「揚花火欄干にハイボール缶」も、こちらの題詠の「光彩やティースプーン冬日影」も、主に「体言(名詞・代名詞・数詞)」で構成されています。この「体言」と「助詞」のみで成り立つ「俳句」という文学について、山本健吉氏は『俳句とは何か』において以下のように論じておられます。

短歌に較べて俳句が体言を好むのは、俳句が飽くまでも「もの」の確実な拠り所に執着しつつ認識的表現を完成しようとすることによる。

山本健吉 俳句とは何か 角川ソフィア文庫

 私の短歌・俳句におけるモットーとして「短歌は叙情、俳句は余情」ということをたびたび掲げてまいりましたが、「『モノ』に拠って立つ」という山本健吉氏が論ぜられた文脈に沿えば、俳句というのは「叙景」に適しており、「短歌は叙情、俳句は叙景」というモットーが自然と導かれます。
 さらに言えば、俳句というのは「月がきれいですね」と口にしては「あなたを愛しています」ということを伝える、「叙景をもって叙情する」という、なんとも豊かな「おくゆかしさ」にあふれた、おくゆかしく、じつにロマンチックな文学であると思います。

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