事実は小説よりも奇なり

 今日の礼拝会場は教会員の自宅にて。私の所属する教会は、ここ数年はとあるビルの一室を借りて礼拝式をとりおこなっていましたが、教会員の人数がそこまで多くないのと、アメリカ人牧師家族(奥方は日本人です)が7月から半年間アメリカに滞在する必要が生じたため、各人が責任をもって礼拝を続けていくために2ヶ月ほど前より各家庭にて、こぢんまりとした、いわゆる「家庭礼拝集会」の時を持つようになりました。それにともない、賛美歌の伴奏もギター一本だとか、時には「アカペラ」といった簡素な形式へとシフトしていくようになりました。
 しかし、本日の賛美歌奏楽のリーダーをつとめた、ひげづらでスキンヘッドでギタリストのオーストラリア人教会員Aは、久しぶりにベースでの奏楽を私に依頼してきました。それで、このAと私の住んでいる場所は、だいたい仙台南部の地域で比較的近く、今日の礼拝会場は仙台北部なので、以前もそうであったようにAが車で、スズキのスイフトで会場まで乗せていってくれることになりました。

 前日、Aが

「9時15分ごろでいい?」

というLINEを送ってきたので、約束の時間を守ることに特に定評のある私は、フレットレスベースの収められた革製のギグバックと、小型の15Wのアンプとを、ちょっとせっかちに9時5分ごろには玄関ポーチへと出し、ポーチのその段に腰をかけて待っていました。
 ⋯⋯そうして待っていること約25分が経った9時30分ごろのこと。いつものごとく、案の定9時15分には我が家の前に現れることのなかったAから着信があって、いわく

「やっほー、今出発したよー。着くまであと10分くらいかかるよー」

とのことでした。じつに面白いし、Aらしいですし、なによりもこちらは「車で迎えに来ていただく」側で――もちろん多少はイラッとしましたが――それだけでもありがたいので、不満は特にありませんでしたが、しいて不満をあげるならば

「⋯⋯Aがうちに着くまでの30分以上という時間もふくめたら、読書していたほうがよかったな」

ということくらいです。
 でもこれは「読書家あるある」だと思うのですが、私は書物をひらくことの出来る余暇に、とにかく書物をひらいていなければ、活字を読んでいなければなにか「罪悪感」に近い感情が生じる人種で、

「こういう時くらいこの『罪悪感』から解き放たれてもいいじゃないか」

という気もしました。
 しかし、私が書き綴ったこの一節の背後には、昨年第169回芥川龍之介賞を受賞した『ハンチバック』という作品の、その作中で市川沙央さんが表現された「読書文化のマチズモ」という一節がつきまとい、私のように「文弱」をよそおいながら、そのじつは「読書文化のマチズモ」を喧伝しているであろう人種の、その様を鋭くにらみつけている「人々」の眼光を感じるようで、なんだかひやひやしてしまいます。

 さて、礼拝が終わったあと、Aは自身のスイフトに、

ロン毛のアメリカ人C、生後8ヶ月のご息女を抱えたフィンランド人M、私の知己であり、チェスプレイヤーである日本人K

という、

「いったいなにがどうなってどうならなかったらこんなやつらが集まるんだよ」

としか言いようがない、ひけづらでスキンヘッドのオーストラリア人Aと、言わずもがな私もふくめて、なんともキャラの立ったヤロウ5人乗りでそれぞれの帰路へと出発しました。昨日の礼拝会場と自宅が近いチェスプレイヤーKは最寄りのバス停で降りましたが、私とCとMは、Aの親切でそれぞれの自宅まで乗せていってもらうことになりました。
 Cが途中で降りたその車中、運転手であるAと私と、後部座席に座ったMと、そのご息女だけが乗っていた時、ご息女のぐずり方があまりにも見かねたのか、お父さんであるMはミルクを作るため、手があいていた私に

"Can you hold?"

と、ご息女を私に託してきました。すると私の手にわたった、ゴキゲンナナメなご息女のその「ぐずり」はもはや「叫声」となり、その「まなこ」を目の当たりに、じっくりと見てしまうと、なんだか私の心がすごく傷つきそうな気がしたため、かといって「あやす」ようなそぶりも私のガラではないため、私はしばらくご息女を不器用に、不自然に抱いたまま、ミルクを作っている後部座席のMと、どこかに途中停車しようと運転する右隣のAと、フロントウィンドウに広がる日曜日の午後4時ごろの光景とを左見右見(とみこうみ)するしかありませんでした。
 ようやくミルクが出来上がったとほぼ同時に、Mの自宅前に着き、Mが私の膝の上に抱かれている我が子のくちもとにミルクの入った哺乳瓶の飲み口を差し出すと、彼女はそれをごくごくと呑みだしました。この時、運転席にて、もののみごとに泣き止んだ赤ちゃんの、その髪の生えたての頭をなでるスキンヘッドひげづらオーストラリア人のA、もののみごとに泣き止んだ赤ちゃんのそのまなこを、おそるおそる見つめる、草履履きの日本人である私、そしてその赤ちゃんにミルクを与える、彼女のお父さんであるフィンランド人Mという役者が一堂に会しました。
 最近はそうとも言えませんが、世界的に、相対的に「外国人」を見かける機会の少ない目下の日本に生きる私は

「事実は小説よりも奇なりとは、こういうことだろうな」

と思いました。

――追記――

 ところで、アメリカ人牧師家庭が半年不在になるということで、メッセージカードに載せるメッセージを書くことになりまして、

      教会に大小のはだしやつどふ

という俳句を一句詠んでいた私は、そのまま「今日の一句」というメッセージとして書きました。そしてふと、

「半年間アメリカで生活するにあたって、家の中ではアメリカ式に靴を履いて過ごすのだろうか、それとも日本式にはだしで過ごすのだろうか」

と、この文章を書いている最中に考えてしまいましたが、そもそも日本でも、靴を履く人はまず少数派だとしても、はだし派か、スリッパ派かでも分かれますよね。むろん、私は「はだし派」ですが。

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