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津島祐子(著)『ナラ・レポート』を読む


「人に勧められない本」と言う感想をネットでちらっと見た。その後、この小説が文学賞を受賞し、この小説家の代表作であることを知った。だから読み進めた。このふたつの、両方とも合点がいく小説だった。
太宰治の次女である津島祐子の作品『ナラ・レポート』を読む。

ここにはまず母がいる。
しかし、その母は、……。
ビニールハウスハウスで弱々しく伸びた母ではない……。
そうだ!
ハウスの中の胡蝶蘭のような母ではなく、胡蝶蘭の根に食らいつき、美を醜に変えていく母がいる……。

母とは、我が子のためなら、本当は決して胡蝶蘭のような姿ではない。

我が子のため生きるとは、胡蝶蘭になることではなく、芋虫にもカミキリムシにも、モグラにもなることができる、それが母ではないのか。

神はいるのか……。
母の前に神は必要か。宗教が必要か。
子を産む性として、女性に美は必要か。
津島祐子は私たちにそう問いかける。

女というもの、母というものはたとえ、地獄に落ちようとも、我が子よ!我が子よ!と恥じらいもなく醜く叫びつづけることよ。我が子のためならば、ほかのすべての子を殺す冷酷さもいとわず、

だとしたら、生まれてくること子と母との関係とは一体何か。

そこには神はいない。
そんなものを糧として、母が子を守ることはできない。

母は外国の公園で、父と出会った。その父には妻子がいたのだが、その父の子を身ごもった。
日本に帰った母は、その子を産む決心をした時、父には言わなかった。

言ったとしてどうなるのだろう。

母は、その時、鬼になったのだ。
母は子を抱いて父に会った。父は困惑した。父がその子を育てられるわけがない。
母は……。
その子が二歳になった時、胃がんになった。
すぐに死んでしまった。

父は仕方なく、その子を自分の母親に預けた。預けられた父の母も困った。
どこに、神などいるだろうか。

十二歳になった子が母のことを思う場面からこの小説が始まる。
しかし、この小説はその九割が、人に勧められない。

その理由は、すぐには読み解けないからだ。
文に意味があるかどうかさえ、不明だ。
この小説の文は時空を超えて飛び交い、舞い、地中に潜り、黄泉に落ちる。


母……。
二歳の子を、温もりのない父の母に預けて、黄泉の国に旅立った母に、いったいどんな意味があるのか。

神も仏もなかろう。
子はナラの鹿を殺す。ナラの大仏を破壊する……。
母は鬼になった。子は鬼の子だ。

正直この小説は速読したほうがいいです。

本当はぶっ壊さなければならない何かを、ぶっ壊すこともできずにいる現代の母子に、作者独特の手法で、鬼の気迫を、スピード感を持って描き出す。

私はこの小説を読んで、現代の母子双方がその関係性を取り繕うことしかできないのなら、どこに意味があるのかと感じた。

二歳の子を残し、黄泉に旅立った母にさえ、意味を見い出し得ないのに、「取り繕い」に意味があるわけがなかろう。



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文字を媒体にしたものはnoteに集中させるため

ブログより移動させた文章です。

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