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立原正秋(著)『花のいのち』を読む。


今年(2018年)の夏は猛暑だった。猛暑の中で込み入った本や極端な本を読んだ。


太宰治でもそうだが、これでもかこれでもかと、押し付けるような小説が多い。小説とはそんなものかもしれない。感情のない小説はなかろう。

そんな時、古書店でひっそりとたたずむ女性に出会った。

細身の女性がすっと立っている。
書棚に伸ばした右手で文庫本を取り、少しだけ表紙の図柄を確認した後、裏表紙の説明を読んでいる。
あれは薄い緑のワンピースだったなあと、今振り返って思う。

その女性は本を書棚に戻し、角を左に曲がった。

どんな本を手に取っていたのだろう。

私はその女性が立っていたところに行ってみた。


一番目立つのは最近流行の作家の本。ずらりと並んでいる。こんな本は読まないだろうなあ。

あの女性は右手をあげて、高いところにある本を取ったのではなく、腰を低くして下のほうにある本を取ったのでもなく、胸の高さぐらいに自然に美しく手を伸ばしていた。立っている姿、書棚に手を伸ばした姿に、どこかしら品があった。

だから、騒々しい本は読まないだろうなあと思った。
太宰は読むだろうか。しかし、このあたりには太宰の本はなかった。


私は一冊の薄い本を見た。
その本はひっそりとしていた。書棚の本はどれも目を引く書名が付いている。
だからこそ逆に、この本のひっそりとした書名に惹かれた。

多くの本は書名を見ただけでは本の内容はわからない。
だけど、この本は内容や雰囲気まで感じられた。
私はその本に手を伸ばし、女性がしたように少しだけ表紙を見て、裏表紙の説明を読んだ。

——純粋で熾烈な愛の極致を冴々と描く、哀切のロマン——

私はあの女性はいくつぐらいだろうかと思った。三十歳くらいだろうか。
結婚しているのだろうか
どんな家庭だろうか
満たされているのだろうか。
美しくたたずんでいても、心はどうだろうか。
人の心は何によって満たされるのだろう。

私はその女性が手に取った本はこの本だと感じた。
感じたけれども、彼女は手に取ってちょっとだけ裏表紙の解説を読んで、すぐに書棚に戻したのだ。

こんな本は必要ないと、彼女は思ったのだろうか。
恥ずかしくて買えないわと、思ったのだろうか。
こんな本を読んでどうするのと、思ったのだろうか。

愛の極致であり、哀切のロマン……。

彼女はこの本を本棚から取り出して、レジに持っていくことをしなかった。

私はこの本を読んでみようと思った。

少し前に私はアンドレ・ジッドの『狭き門』を読んだ。
愛の極致の物語だった。独自の愛の形だった。そんな本であろうか。正直、そんな本なら嫌だなあ。
もっと優しく、切々として悲しくはなく、哀しい……
そういう時、「哀切」という言葉を使うのだろうか。

私は日本の奥ゆかしい愛を期待して、その本を手に取り、レジに向かった。
『花のいのち』という書名と、立原正秋(たちはらまさあき)という著者。
牡丹だろうか、開いた白い花と、閉じた赤いの花の図柄。

その全てが強く自己主張しているわけではない。


私はこの本を読んだ。

読んだ後、思ったのは妻のことだった。



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