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『万葉集』を読む (系図)
最初は、天武天皇・持統天皇「夫婦」のお話。
天武天皇は天智天皇の息子である大友皇子に反旗を翻してクーデター(壬申の乱)を起こし、政権を簒奪した。
だから、自分の時代では「争いごと」を未然に防ぎたい。しかし、持統天皇は無理にでも自分の息子、草壁皇子を後継者にしたい、という矛盾を孕んでいた。
そこで、夫婦は考えて、壬申の乱の発祥の地、「吉野」に後継予定者の自分の息子と天智天皇の息子、計6名を読んで、「みんなで仲良くするように」という誓い(吉野の盟約)を立てさせ、さらに持統天皇の強い要望で草壁皇子を後継者にすることを暗示した。その時に集まった男子。
天武天皇の息子
草壁皇子 くさかべ 17歳 (持統天皇の息子)
大津皇子 おおつ 16歳 (持統天皇の姉の息子)
高市皇子 たけち 25歳 (母親が皇族ではなかった)
忍壁皇子 おさかべ ?
天智天皇の息子
川島皇子 かわしま 22歳
志貴皇子 しき ?
この内、まず最年長の高市皇子は壬申の乱の時に大活躍をして当時ヒーローだった。
大津皇子は才能抜群で、人気があった。
持統天皇の息子、草壁皇子は「う〜ん?」という感じだったらしい。
天武天皇が亡くなると、大津皇子は川島皇子の密告により謀反の罪で自死に追いやられた(23歳)。
草壁皇子は皇太子になったがまもなく亡くなり(27歳)、その後、高市皇子も亡くなった。
忍壁皇子は孫の軽王子を天皇にしたい持統天皇に嫌われた。
さて、目立たぬ最年少の志貴皇子だが、彼の死後54年後の子孫が第49代光仁天皇となり、現在の皇室は彼の系統であるという。
志貴皇子の歌
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春になりにけるかも
原文
石激 垂見之上乃左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
歴史は秀でた者が作るのではないね。
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