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小川国夫(著)『海からの光』を読む。


筑紫哲也さんの言葉で「人は出会った人でできている」があります。私の忘れられない言葉です。まさしく出会いこそが人生なのです。

出会いは何も人だけではありません。書物でも大きな起点となることができます。どんな書物に出会うかは、人と出会うよりも書物に出会うことを好む人にとっては、とても重要なことです。

では、どのようにして本と出会うのか、私の場合は、まったくの勘、まったくの偶然です。

いわゆるピンと来る感覚。私の場合にはハズレがありません。なぜハズレがないのか自分でも不思議でならないのですが、本は私の目の前にまったく偶然に現れて、かならず何かしらの楽しみを与えてくれます。しかも、これは大きなことですが、人のように、その後になってけんか別れすることなどまったくないのです。
本の付き合いは、このようにとても安心です。そういう意味では精神衛生上とても良いのだと思います。

小川国夫の短編集『海からの光』も不思議な縁で私の前に現れました。それまで小川国夫という作家のことも、この本のこともまったく知らなかったわけですから、不思議なものです。

この本を読んでみると、浮かんできたのは川端康成の文章です。いわゆる「ものに語らせる」手法がとても清々しい短編集になっています。

私はこの本の前にさまざまな心理小説を読んでいて、海の波や雲の動きなどの描写が少ない小説ばかりでしたから、映像がすっと頭に浮かび上がって来ることがとても新鮮でした。

ものに語らせるとは例えば次のような文章です。

聖堂の外には、神父のサンダル底と浩のズック靴のあとがわずかに霜の上に乱れている所に、門からコードのような自転車のわだちが入って来ていた。

彼はみちみち、一日でもいいから逗留を延ばすように浩にいい、[…]彼の熱心な言葉は、風に攫われて消えてしまう感じだった。道路においたトランクの側面に風が当って倒れそうになるので、浩は風を切るようにトランクの向きを変えて、パブロとしばらく向き合っていたりした。

私がいいなあと思う作品は「二百九人の死」です。この掌編はマラリア海域での漁船の遭難事故のことが書かれています。生存者はわずか三名。二百九人が死亡・行方不明になりました。

最後の生存者が、焼津港に戻ってきた時の様子を書き表した、次の文章は桟橋での独特の雰囲気が目に浮かびます。

彼が顔を正面に向けていたことは、見たいという気持の現れに違いなかった。まわりのものが彼のその気持を汲んでともかくも一度甲板に立たせたのか、それとも、河岸の遺族に、義務として挨拶しようとしてのことか、などと浩は思った。廉平は、あとから、死んだ漁船員たちのたった一人の伝令、といった感じだったといった。


ものに語らせる……ものについて特別な思いを持っていたのはドイツ詩人のリルケです。『神様の話』ではしきりに「ものに宿る神」について書いています。この作者は当然リルケを読んでいるでしょうから、ドイツの詩人とこの小説家が不思議な縁でつながります。

自分なりの想像の末に、ふたりのこんな関係性を発見して、私は、この小説家に出会えてよかったなと思ったのです。

出会いは無限の可能性を秘めているからこそ、人の人生に大きな影響与えるのでしょう。



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