ジャック・ロンドン(著)『白い牙』を読む。
小説が、心の襞の動きをたくましい想像力で理論的に築き上げ、物語を描き出すものであるなら、その対象は何も人間だけでなく、動物でもよいのである。
作者のジャック・ロンドンが動物の心理小説を書き始めた動機が、このようなものであったかは定かでないが、この小説には4分の1だけ犬の血を引くオオカミ「白い牙」(ホワイト・ファング)の心の様子がよく描かれていて、びっくりするくらいだ。
冒頭の場面は、カナダの凍った森を犬ぞりで旅をするふたりの白人が、腹をすかせた狼の群れに襲われる。この場面は迫力があり、ぐいぐいと引き込まれる。このオオカミの群れを率いていたのが半分だけオオカミの血を引く白い牙の母親。
白い牙は小川のそばの洞穴で生まれる。小さなオオカミの赤ちゃんが洞穴から出て、どんどんと冒険をしていく様子はよくよく観察しないと描けないだろう。
作者のジャック・ロンドンはゴールドラッシュのアラスカに稼ぎに行ったが、その深い森の中で金の採集に飽きて、子犬やオオカミの仕草を毎日観察したのではないだろうか。作者のこのアラスカ時代の観察が、この物語のアイディアになっている。
この物語で作者は何を伝えたかったのか。それは「必死に生きる」ことだ。
敵の多い森の中で生まれ、何日も飢えた日々に兄弟姉妹は死に絶え、飢餓状態でも必死になって生き抜く幼い白い牙。
たくましさは、死に物狂いの中からしか生まれてこない。
それが自然の掟である。
そしてこの絶体絶命の時を無我夢中で走り抜けようとする、その時間こそが、しあわせな瞬間なのだ。
しかし、この4分の1だけ犬の血が混じる白い牙は人間に出会い、服従を学ぶ。
このあたりから、作者が考えるオオカミの心理状態が描かれるが、人間を神と思い、服従することを学ぶという設定には、キリスト教信者ではない私には少し違和感が残る。
野生のオオカミがだんだんと人間によって飼い慣らされていく。その過程にはオオカミの屈辱があり、孤独がある。それは人間が棍棒や鞭でオオカミの虐待の結果であることが明確である。
作者は最後に「やさしい白人」を登場させる。
かわいそうになあ、こいつには人間の愛情が必要なんだよ。
その後、白い牙はこのやさしい人が心から好きになり、命がけで守るようになる。
野生の血を引くオオカミの心理小説。人間相手の心理小説よりも、迫力がある。
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