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池田得太郎(著)『開拓者 依田勉三』を読む。


七月末(2018年)に夫婦で北海道を旅した。バスが十勝平野(襟裳岬の東部)を進むおり、バスガイドさんが
「帯広に本店がある六花亭のマルセイバターサンドは皆さんもご存知だと思いますが、現在でも依田勉三の設立した晩成社のマークを使っています」
と説明した。依田勉三? 晩成社? 知らない言葉だった。

旭川空港で六花亭のマルセイバターサンドを買った。なるほど見たことがあるパッケージだ。「丸に成」が晩成社のマークだという。帰って食べてみたら私の好みの味だった。

私は九州に住んでいる。
「六花亭のバターサンドってこのあたりでは売っていないの」
「たまにあるのよね。見つけたら買ってくるわ」
私はコーヒーよりも日本茶の方であるのだが、もちろん明治の味、日本茶の方がよく合う。

池田得太郎(著)『開拓者 依田勉三』を読む。依田勉三に関する小説はなかなか見つからなかった。ようやく見つけた一冊。

今年は北海道命名150周年なのだそうだ。北海道の開拓の歴史はどの地域でも苦労の連続であったであろうから、たくさんの物語が存在する。ヒグマの被害など毎日のようにどこかで発生しただろう。そんな時代だ。

その中でも、依田勉三の十勝の開拓は北海道開拓の歴史の中でも特筆される。ひとつは彼は、藩命や開拓使の命令など、公的な指示があって十勝に向かったのではないことだ。

依田勉三は静岡県伊豆の資産家の息子(三男、次男が早死したので戸籍上は次男)。武田信玄の忠臣の末裔で、慶應義塾で学んだ。だからこそ当時の最新情報に接する機会が多かった。

ある日、友人が帰郷するので勉三に「屑屋(くずや)にでも売ってくれ」と古雑誌の山を預けた。その中に米国農務省長官、ホレス・ケプロンの北海道の報告書の内容が記載されていた。
「そもそも本島(北海道)の広大なるや、合衆国の西部の未開地にひとしく……」
から始まる文章に接した勉三の目が釘付けになった。
「かかる肥饒(ひじょう)の沃野を捨ててかえりみざること、日本政府の怠慢というても過言にあらず……」


勉三は二十五歳だった。心に火がついた。この瞬間こそが、その後150年経った現在でも語り続けられる依田勉三の物語の始まりなのだ。これほどの「本との出会い」があろうか。

勉三は資金を集めて北海道に移住する人を募った。つまりこれは株式会社の形態なのだ。名称を「晩成社」と決めた。

勉三の計画の特徴のふたつ目は、十勝地方に目をつけたこと。襟裳岬の東部、十勝地方の中心地、現在の帯広市には当時アイヌが十世帯、和人が一世帯しか住んでいない未開地だった。だからこそ勉三は目をつけた。なぜなら「他の人がすぐに入ってくる。だからこそ、我々がまっさきに出て行くのだ」という気概だった。

十勝の冬は厳しく、原野は深く、開拓には想像を絶する苦労があった。生まれたばかりで北海道には連れてこれずに、伊豆に残した実子が死んだ。募った人たちだから仲間意識が薄く、すぐに離散した。野火が彼らを襲い、バッタの大群が作物を全滅させた。それでも、それでも食べ、働き、生きた。

豚と同じような物を食べ、豚とひとつ鍋を共有して、必死に生き抜いたと言われている。

「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」

この勉三の有名な句は、よく北海道開拓の精神を表している。その後、酪農経営に乗り出して、マルセイバターサンドのパッケージを飾るまでになった。

「本との出会い」がこれほど本人の人生、地域の歴史に関わった例を、私は知らない。


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