【川端康成の美】短編『片腕』の美はこの世のものとは思えない。
✅ なぜ物語を求めるのか。
私たちはなぜ、物語を求めるのだろうか。
それは、物語ではない、つまりリアルな世には
真実も、美も、善も存在しないからではないか。
とかく、人が真実を語るとき、それは真実ではなく
美を語ることなど、できるはずもなく
まして、善を説くなど
📌厚顔無恥も甚だしいと思うのだけど、
世の中には、厚い皮で覆われた顔をさらけ出して
その、ぶ厚い皮にはヒビが入り、
端が(恥が)メクレ上がっていることに気づかず
あるいは、裏面には原色のカビさえ生えている
そのようなツラの皮を持ち、公衆にさらけ出し
歪んだ口からは、嘘とも誠とも取れる
巧妙な言葉を連ね、いかにも自分は、
📌善の権化で、美の伝道者のように
📌振る舞う輩が夥しい……
✅ 写実主義と物語
もし、志賀直哉の自由主義をもって
忠実に世の真実を描くとすれば、
この類の人の、姿形を描くべきであって、
それこそが、写実本位の自由主義文学だと言えるだろう。
だが、当の志賀直哉は、写実と言いながらも
その小説はまったくの物語でしかなく
📌文学としての写実は、醜さを美に変えるための
空想の世界を忠実に描く手法と、言い換えるべきだろう。
この世では美は美ではなく、善は善ではない。
📌真実は100億光年の彼方にも見つかるまい。
例えば美は、この世の外では、あるいは美かもしれない。
この世の外とは、いったいどこだ!
川端康成は、美をこの世の外で見つけようとした。
考えてみれば、尋常ではない思考だ。
私がこう書いても、
次の小説を読めば「なるほど!」と納得する人も多いだろう。
✅ 川端康成の短編『片腕』
📌とんでもない小説である。
📌うら若き女性が、自分の右腕を、男に一晩だけ貸してくれる……
空想も、ここまで到達しなければ、美に追いつけない。
この短編の中で、いろいろと美しい場面もあるのだが、
私はあえて冒頭の場面にこだわってみる。
冒頭の場面を私の想像を加えて描いてみる。
うら若き女性と、中年の男が向かい合って座っている。
📌女性は淡いブルーのスカート、清楚な感じだ。
男性は、紺のスーツ。
向かい合っているのだから、
スカートから出た女性の膝
男性の紺のズボンの膝
この二つの膝がくっつくくらい近い。
✅ 物語を想像する
ここからは小説とは異なるのだが、私の好みで書かせてもらう。
うら若き女性は、自分の片腕を男性に一晩貸すのだから、
女性は左手で、自分の右手を
クィッとひねる。
ひねると、右手がはずれる。
若き女性の右腕が、
淡いブルーのスカートからちょっとだけでている膝
その膝の上に、女性は自分の右手を置く。
私のこの短編『片腕』のイメージはこんな感じなのだ。
実際は川端康成はこの冒頭の部分をこんなに詳しくは書いていない。
しかし、
女性が左手で自分の右手をはずして(男性の)膝の上に置く
と書いてある。
私は男性の膝の上に置く前に
一旦、左手を自分の膝の上に置いただろうと想像している。
空想の物語のその上をいく、想像……
イメージしてほしい……
淡い空色のスカートから少しだけでている両膝の上に
美しい右腕があるのです。
📌美しいではないですか!
えっ、気味が悪いだけだ!
そうですか……。
「厚かましいにもほどがある!」
ある真実を語りたがる人が、言い放ったのはこの言葉でした。
真実は実は真実ではないことを、ご自分はとうの昔からご存知なのです。
「真実が真実ではないという真実」を指摘する若造に対しては
「厚かましい」という形容詞しか知らないのです。
想像力も語彙力も乏しい輩は、
真の美などには見向きもせず
ただただ、現実の谷間の暗闇に向かって
「清く正しく美しく!」と叫んでいる
ネズミにも似た生き物と化しているのです。
ところで、
女性の膝の上に置いた右腕の、
肩の丸み
肘の角度
指の細さ
爪の輝き
これらの美は、一晩だけ、男性のもの……
美しい片腕は、その後どうなっただろうか?
美しいままだっただろうか?
また、翌日、女性の
📌まるい美しい膝の上に戻されただろうか?
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