【川端康成の美】小説『舞姫』の舞姫がバレーをやめた理由
✅人工の池の鯉
私の町の中心部、市役所の交差点には人工の池があります。
鯉が十匹くらい泳いでいて、近づくと口をパクパクしながら
盛り上がるほどに寄ってきます。
鯉の群れは、私には異様な光景にしか見えないのですが、
子ども達がキャッキャと騒いでいるのを見ると
私が奇妙な考えをすること自体が、罪作りのようで、
鯉の口の集まりと、子どもの騒ぎ様を見比べながら、
最後には子どもの素直さを心にとどめ、
鯉の口の群れから離れるのです。
しかし、横に長い池を右に進むと
一匹だけ、泳いでいる鯉がいます。
そんなに大きな鯉ではないのですが、なぜが群れから離れています。
鯉の姿は自然で、餌に狂う口だけの鯉とは違い
しっかりと、鯉らしい姿を見せてくれます。
鯉は決して口だけの魚ではなく、
鯉は、鯉なのです。
📌鯉は魚なので、餌を感じれば、魚は口に変身するのでしょうが、
人間はそうはいかないのでしょう。
✅鯉と鯉の距離
川端康成の『舞姫』の最初の場面に、この群れから離れた鯉のことが出てきます。
口だけ大きな鯉が鯉なのか
群れから離れた鯉が本来の鯉なのか、
いやいや実は、この一匹の鯉こそ、
📌このすねた鯉こそ、孤独な鯉こそ
人間ではないのか……
この『舞姫』を読み進めて感じることは、
池の鯉に例えれば、すべての鯉が均等に距離を保ち、
くっつきもせず、だからといって、遠く離れもせず、
不思議な空間を作っている。
まだ口の群れの鯉の方が自然です。
群れと孤独な鯉の対比の方が自然です。
お互いの距離を測りながら泳ぐ鯉。
エネルギーを感じない光景に、作者はぐっと近づきます。
✅『舞姫』のテーマ
一匹の鯉は……
例えば、主人公(波子)のバレー教室の助手「友子」の場合。
友子の年齢は二四くらい。
好きになった男性は四十くらいで、妻子持ち。
男性には子どもが二人いて、二人とも結核を患っている。
また結核は死の病の時代。
友子はこの好きになった人の子どものためにバレーをやめると言う。
やめて浅草で働くと言う。
妙齢な女性が「浅草で働く」とは、当時は、
📌ストリップショーに出ることだった。
「うそでしょ!」
と波子の娘、品子が友子に言う。
うそじゃないわ。私の子供ではないけれど、あの人の子供ですもの。それに、人の命ですもの。✔あの人のだいじなものは、私のだいじなもので、あの人のつらいことが、私のつらいことというのは、✔ほんとうに高い真実ではなくても、私一人が頼れる、真実にはなるのよ。品子さんが私を責める道徳や、私が自分を哀れむ理性では、あの人の子供の病気は、よくならないでしょう?
川端康成の『舞姫』のテーマははっきりしています。
📌「魔界」です。
仏界、入り易く、魔界、入り難し。
仏界とは何か?
口だけの鯉の群れ……
一匹だけの鯉……
等間隔の鯉たちの異常さ……
それよりも、異常な、魔界。
この友子は、
鯉が群れるとか離れるとか、等間隔にいるとか、
そんなことには関係ないんだ。
そうではなくて、一匹の鯉として
他の鯉との距離など存在せずに
📌一匹の鯉として、魔界に入っていこうとしている。
その魔界の、究極の自己犠牲に、
川端康成は、彼の考える美を、突き詰めてゆく。
さて、実際の魔界などには到底入ることもない私たちは、
群れながらもお互いの距離を測り、
孤独になりながらも、ぴったりとくっつくこともなく、
📌ただただ、距離を測りながら、群れを作っているのです。
川端康成の文学はこの小説『舞姫』から
魔界に入っていきます。
そして有名な小説『眠れる美女』に向かいます。
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