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『小中村清矩日記』(2)

庄七叔父と父倉五郎と祖父久右衛門

(1)で庄七叔父や久兵衛伯父等についていろいろ書きましたが、ここで庄七叔父について重要な情報を得ました。千葉俊二先生「谷崎家の先祖はほんとうに近江から来たのか」という論文(Googleで検索すればPDFも見つかります)で、庄七という名前は慈眼寺の過去帳から、常陸屋庄七→釜屋庄七という人物から受け継がれたと思われるということが書かれています。一方久右衛門は富島町の酒ヤ粂吉の子であることは石川悌二著『近代作家の基礎的研究』に書かれています。千葉先生も久右衛門は谷崎家に養子に入ったのかと書かれていますが、実は私も以前から、谷崎の祖父久右衛門は別の久右衛門の後に入って、久右衛門が亡くなったとされる時には実は亡くなっていないのではないのではないかという仮説を立てていました。そのあたりが『夢の浮橋』に家康替え玉説が埋め込まれる下地になっているのではないか(新村出から谷崎に「瀬名の方」切り抜きおよび書簡、「築山殿のこと」が送られていることが、小谷野敦氏の谷崎潤一郎詳細年譜に書かれています。ちなみに瀬名の方は新村出の先祖。)、もっと言えば、谷崎が松子夫人の前夫と自分だけ入れ替わり、晩年は(作品の中だけでも)自分だけ出ていこうとしていたことにもつながるのではないかと。

谷崎の祖父久右衛門の父が富島町の酒ヤ粂吉ならば、下り酒を扱っていたと思われます。これが後に谷崎が住むことになる地域に繋がり、下り酒を輸送する手段としての辰馬汽船に繋がります。
そして釜屋庄七が常陸屋庄七ということになれば、谷崎の一族は皆有馬小学校に行き、潤一郎と精ニだけが阪本小学校に行ったという背景も見えてくるというものです(水戸学関連)。
なお、久右衛門が何をやっても当たったという背景には、真鶴館と渋沢栄一との距離が関係しているのではないかと考えています。谷崎の幼なじみの笹沼家が経営を任されていた偕楽園も渋沢栄一関連で笹沼東一氏の講演をお聞きした時、偕楽園ではお酒は白鷹を使っていたとおっしゃっていました。

2020-06-21追記

谷崎の父倉五郎は、谷崎の生まれた年に酒店を開業していました。やはり新川の問屋が扱う下り酒ですが、「白鷹」ではありません。「櫻正宗」でした(問屋の名前が鹿島清兵衛!)。谷崎の『幼少時代』には洋酒店と書かれていますが、日本酒を隠したのは、父の長兄やその岳父を登場させなかったように、あえて伊丹とすぐには関連付かないようにしたかったのかもしれません。
なお、鹿島清兵衛は明治28年に戸田氏共と日本幻燈会を設立しているということなので、この人脈は久右衛門よりも小中村清矩の方が近いと思われます。ちょうどその年、清矩は実父方のルーツをたどり三河に立ち寄っていますが、その最中と帰宅後に大垣の戸田氏貞という人と手紙のやり取りをしています。清矩の実父の家も酒商で、霊岸島に家があったことが日記に書かれています。

下り酒については、昨日付の神戸新聞の記事が偶然ありましたのでリンクしておきます。
たまたま昨年秋に旧山邑家住宅や芦屋神社に行ってまいりましたので、その写真も掲載します。芦屋神社入口の猿丸翁頌徳碑(猿丸家は猿丸大夫の末裔とのこと)では小中村清矩の婿になった池邊義象が撰文並びに書を書いていますし、その傍らには『細雪』の碑があります。そのすぐそばに芦屋川決壊の地の碑があり、旧山邑家住宅があります。
この一帯は『細雪』の最重要地点といえるのかもしれません。

ヨドコウ迎賓館(旧山邑家別邸)玄関
ヨドコウ迎賓館(旧山邑家別邸)から芦屋市街を望む
猿丸翁頌徳碑と『細雪』文学碑
猿丸翁頌徳碑。撰文並書は、一時谷崎の親戚だった池邊義象
芦屋川決壊之地の碑

2021-04-28追記

『細雪回顧』に次のような記述があります。

私のゐたところは絶対安全なところで、実は私は少しも恐い思ひはしてゐないのだ。水が出た二三時間後に近所を歩いてみた見聞と、あの辺で実際に水害に遭つた学校の生徒の作文をあとで沢山見せてもらつたので、それが参考になつてゐる程度である。

『細雪回顧』より

この場所は、山邑家だったのではないでしょうか。当時住んでいた場所はとても「絶対安全」とは言えないでしょう。山邑家は芦屋川決壊の地より上にあり、ここほど安全な場所はありません。
また、ここからならば被害の全容が家の中から見ることができます。谷崎が当日恵美子さんの学校を休ませたのも、ここから見れば「今日は危ない」ということは一目でわかると思われます。

「近所」は芦屋川駅あたりかと考えます。

猿丸安時翁は、芦屋川を改修した人です。『細雪』には、カメラマン板倉が突然降ってきた理由として次のような記述があります。

板倉が答えたところに依よると、彼にはその朝から今日あたり水が出そうだと云う予感があったのであると云う。なおもう一つ溯ると、阪神間には大体六七十年目毎に山津浪の起る記録があり、今年がその年に当っていると云うことを、既に春頃に予言した老人があって、板倉はそれを聞き込んでいた。

『細雪』より

この老人は猿丸家の方、もっといえば既に亡き安時翁をイメージしていると思われます。武庫川女子大学リポジトリに、『芦屋猿丸家と猿丸大夫の謎』という論文がありますので、こちらもご覧ください。

初代谷崎久右衛門と河竹黙阿弥

谷崎は、『幼年の記憶』で次のように言っています。

写真を見るとわたくしのお祖父さんに感じばかりでなく顔付など実によく似てゐるのでぎよつとします。(中略)着物の着方とか風俗とかいふものが実によく、似てゐるのです。

『幼年の記憶』より

ここで写真を見てみましょう。

こちらが谷崎の祖父久右衛門

谷崎久右衛門

こちらが河竹黙阿弥

河竹黙阿弥

年齢の違いだけで、これだけ似ているとそれはぎょっとするのもわかります。

実際、演劇改良運動絡みで黙阿弥が黙阿弥になっていた時期と、谷崎の祖父久右衛門が活版所の当主だった時期はほぼ一致しています。

そして久右衛門の死後、黙阿弥は再び活発に活動を始め、小中村清矩との交流も強くなり、亡くなった時(明治26年1月22日)の日記には

本日午後四時、古河黙阿弥死去之旨郵書、駒込へ来る〔廿三日〕

『小中村清矩日記』

と記され、さらに26日の日記には

吉川(古河)黙阿弥への弔書及び花料をもたせ遣ス。

『小中村清矩日記』

と記されます。ちなみに谷崎の叔父が祖父久右衛門の戸籍の実印部分を破りとったのはその年の8月です。

一方、小中村清矩は二代目久右衛門について関わったり、三作さんと江沢家、谷崎家が親しくしているにも関わらず、初代久右衛門が亡くなった日は次のような記述になります。

(明治21年6月)十日 晴。午後曇。日曜
○午後一時芝紅葉館行。華族亀井茲監ぬし三週追遠哥会也。題者ハ福羽・高崎、読師ハ石河正養・伊東祐命、講師ハ加部厳夫・安部真貞也。条公・東久世・近衛老公・伊達宗城侯・千家尊福其他華族の男女七八名、以下ハ木村・三田・黒川・大谷・小出・松波・八十子・久子其他当日掌事・接待掛十五六名也。暮て帰る。中ばし日のやへ寄、十三日之事頼。〇右馬へ郵書出ス。十三日之事頼ミ。〈頭書〉朝三作帰る。又出。

『小中村清矩日記』

十三日之事というのは引っ越しです。当日急遽決めたのかもしれません。
亀井茲監は久留米藩の第9代藩主有馬頼徳の六男として江戸で生まれ、兄弟には久留米藩を継いだ有馬頼永の他、前橋藩主になった松平直克がいます。
久右衛門の死については一言もありません。三作さんが忙しく出入りしているくらいです。『春琴抄』の天下茶屋の梅見と亀井家、鷗外との接点かと思われます。なぜなら船場御霊神社の敷地は津和野藩の祖である亀井茲矩が邸地を割いて寄進されたからです。

引っ越しは非常にあわただしいものでした。

十三日 陰、後小雨。
転居ニ付右馬・村松手伝に来る。午後陰たれば暫時見合せ、やゝ晴口になりたれば取懸る。依て十時前よりはじむ。然るに午後雨降出したりたれど、つとめて運送す。薄暮に至りていまだ荷物残れり。〇皇典所断、文部省へ出ず。△去十一日教員検定掛にて会ある処、散会にて今日となる。よりて昨日物集に頼遣ス。〈頭書〉三作午後帰る。夜出。/庭作休、大工三人。/長井後家転宅悦ニ入来。

『小中村清矩日記』

黙阿弥についてはTwitterでもかなり投稿していますので、併せてご覧いただけると嬉しいです。

谷崎作品に取り入れられたと思われるエピソード

上記の亀井茲監ぬし三週追遠哥会の他に谷崎作品に埋め込まれたと思われるエピソードを並べてみます。

豊明節会の記述。→『源氏物語』
小中村清矩の三女で谷崎の伯母であるお晉さんが乳人として明宮御殿に上がったこと→『蘆刈』
臼倉家再興基本金→『細雪』

(明治25年9月3日)
仁杉・小田切・太田・丸山〔半兵〕・今井・臼倉来会。評議の末親族会議にて丸山・太田両家へ預りし(廿三年冬)臼倉家再興基本金九百五十円ハ吉右衛門へ渡、改て金四百廿五円はハ今井氏預る事と決す(此金の性質ハもと吉右衛門妹三人縁付費の残金なりし)。

『小中村清矩日記』

亡くなる年に息子夫婦と西への旅→『瘋癲老人日記』
三作さんとおみつさんの恋愛(清矩は最初からおみつと呼び捨て表記)清矩、夜も眠れぬほど悩む→最初は雇女として届け出(このあたりは『夢の浮橋』も)→ようやく正式に結婚(予も調印)
奥様の下痢の記述で終わる→『細雪』


人名索引は大変有用

人名索引には実にたくさんの人たちが登場します。幕末明治期の資料としても大変有用です。
また、大変分厚くどうしても拾い読みになってしまうのですが、最初から落ち着いて読んでみるとそれまで気づかなかったものも見えてくるので、時間を見てはできるだけじっくり読んでみたいと思っています。

Twitter等

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』について等、Twitterに書いていますのでご覧いただけると嬉しいです。

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