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霞の向こうに 10

10

 深く眠りに落ちたと思った、次の瞬間、イグサは知らない居間に立っていた。じんわりと頭がぼやけていたが、冬の朝を思わせる寒さに全身が冷やされて次第に脳が覚醒した。
 これは夢か。彼方が、Cを覗くと言っていたのを思い出した。
 仄暗い家だ。カーテンが開いているにもかかわらず暗い。夜の暗さではなく、部屋に陽が当たっていない。陽を遮るビルでも隣に建っているのだろうか。電気も点いていないし、今この家には誰もいないのか。
 だんだん目が慣れてきて居間を見渡せるようになってきた。広さは八畳くらい。部屋の中央にダイニングテーブルと、椅子が二つ。テレビもソファもない。壁には暗い灰色を隔てた窓と淡い青のカーテン。本棚はあるが、文庫本が数冊並んでいるだけで、漫画や雑誌は見当たらない。磨りガラスがはめられたリビングドアが開いている。イグサが立っているちょうど後ろには襖があって、そちらは閉じられている。
 生活感のない居間だった。これがあの乱暴な物言いのCの内部……。整っていて簡素な部屋がどうしてか歪んで見える。イグサは戸惑った。
 フローリングを踏み込むと軋む音がした。開いたリビングドアの向こうを覗く。ドアの先はキッチンスペースだった。シンクは空。冷蔵庫のファンが鳴っている。奥の玄関を見ると、床に黒い影が蹲っていた。
 誰か靴を履いているのか?しかし、影は動かない。人なのか?呼吸の息遣いひとつ感じられない。ただ人が座り込んだ形をしている影に見える。
 突然、後方で物音がした。イグサは襖を振り向く。奥に誰かいる。「イチ!」と声がした。Cの声だ。勢いよく襖が開いて、少女が飛び出してきた。
「待って!」
 黒いセーラー服に黒く長い髪。少女の姿は写真のカタギリキリと一寸違わず重なった。リビングドアへ向かってくるCをイグサは慌てて避けた。Cは玄関先の黒影を見とめると叫んだ。
「どこへ行くのですかイチ!」
 影はゆっくりと立ち上がった。真っ黒なチェスターコートが揺れる。背丈は一八〇センチほどあるだろうか。背中が大きく、鍛えられた身体をしている。
 男は振り向かなかった。代わりに、とても嗄れた声で言った。
「すまないキリ。許してくれ」
 強く、芯の通っていて、孤独を帯びた声だった。男はドアに手をかける。Cが震える。瞳が熱く揺れている。
「行かないでください」
 男はそのまましばらく動かなかった。でも、ドアノブを回して扉を開いた。部屋に冷気が入り込んできて、イグサの頬を突き刺す。Cは崩れるようにへたり込んでしまった。
「どうして何も言わないの……。どうして行かなくてはいけないの……」
 電話や新幹線で聞いたような凄みのある声ではなく、一人の少女の悲痛な嘆きに聞こえた。
 男は僅かな躊躇いをみせた。ドアを半開きにしたまま何かを言いたそうにしていた。外気はどんどん部屋に入り込み、寒い。Cは肩を震わせて泣いている。
「すべて間違っていた。俺のせいだ」
 最後まで言い切る前に男は出て行った。扉が閉まって冷たい外気が遮断される。暗い廊下に冷蔵庫のノイズとCのすすり泣く声だけが残された。
 イグサは息を呑んで一部始終を眺めていた。現実ではないはずなのに、脇の下を流れる汗の感覚がいやにリアルだった。
 Cはカタギリキリだった。黒いセーラー服は、この三日の間イグサが脳裏に焼き付けていたものだった。新幹線でCを初めて見たとき、綺麗に整った容姿が妙に引っかかったが、それが穴があくほど眺めた写真に存在していた顔と合致して、納得した。
 地味な捜索から一転、思わぬ形で目標に到達したことになる。あまりに展開が急すぎて、イグサは何も感じなかった。あとは目が覚めてからCに確認しよう。あなたは『カタギリキリ』さんですか、と。
 しかし、この夢はなんだろうか。Cの記憶だろうか。あの大きな男は誰なのだろう。父親?そのようには見えなかった。複雑な家庭環境ならわからないが。
 不意にCが泣くのをやめた。
「お前、私を盗み見たな」
 床に座った姿勢のまま、聞き慣れた粗暴な声色でCは言った。でも、少し鼻声だった。
「悪気があったわけじゃない。気がついたらここにいたんだ」
「どいつもこいつも勝手だな」
 Cはため息をついて、顔を上げず、長い髪をかき上げた。

「こんなものしかなくて悪いな」
 インスタントコーヒーを注いだマグを両手に持ってCは言った。
 暖房がなく寒かったのでとても助かる。イグサは両手でマグを受け取り、包み込む。Cは向かいに座った。眠っているであろう新幹線の車内と同じだった。
 イグサはコーヒーを啜って、切り出した。
「さっきのはお父さん?」
「父か……。まあ、そうだな。私にとっては親のような人だ」Cはマグの中に視線を落としていた。
 やはり肉親じゃなかった。
「複雑なのか?」
「まあな」
 それより、とCは顔を上げる。
「どうしてお前が私の記憶の中にいるんだ」
「それが、僕にはわからないんだ。おそらく彼方の仕業だと思う」
「彼方?」
「うん。僕といつも一緒にいるんだ。彼方は不思議な存在で、どういう原理か知らないけれど、こういう理解のできないことをたびたび起こしてしまうんだ」
「西東京の密売人もそいつがやったってわけか」
「まあ、そうなる」
 眉唾ものだな。Cは新幹線のときと違って穏やかな瞳をしていた。けれど、虚空を見つめるような無気力感が幾分か含まれている。
「お前の周りでわけのわからないことばかりが起きている。でも、ただ疑っていても仕方ない。とりあえず、何も考えずに受け入れることにする」
 意外だった。なんとなくCはリアリストでこういったことは信じず、拒絶すると思っていた。
「いいのか?僕は勝手に君の記憶の中にお邪魔して」言ってから、些か無神経だったかと後悔したが、Cはきっぱり、
「別にいい。誰かに見られるなんて想像もしたことないけれど、現にお前はここにいるしな。それに、私独りで抱えているのはもう限界なんだ」と言い切った。
 こいつはこんなに素直だったのか。電話や新幹線での印象とはかけ離れている。
「なんだか君は、僕が知っている君ではない気がする」
「お前が私の何を知っている」
「もっと非情で、ある種のプロなんだと思ってた」
 それを聞いてCは少し笑った。
「そういう風に飾っているだけだ。じゃないとこの世界ではすぐに切り捨てられる」
 そして、コーヒーの深淵に目を落として、続ける。
「虚勢を張るのは疲れる。わたしだってどうして生きているのかわからないし、どうやって生きていいのかわからない。はじめから私は存在していない。死にゆく身だったのに、イチが生かしてしまったんだ」
 それにしても甘い匂いがする、とCは部屋を見回した。
「おそらく彼方だろう。リラックスさせようとしているのかもしれない」
「そうか。いわれてみれば大麻の匂いに似ているな」
「大麻?」
 少し大人しくなってセーラー服姿が目に馴染んできたけれど、この女は裏の人間なのだ。イグサは苦笑した。
 再びCは視線を下ろして、「彼方とは……何者なんだ」と、マグを揺らす。
 イグサは少し迷ってから、言った。
「気づいたら側にいる、僕の友人だ」
 薄いコーヒーは緩やかに渦を巻き、Cは小さく息を吐いた。
「私にもそんな友人が欲しかった」

仕事がありません。お金がないと死んでしまいます