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霞の向こうに 14

14

 夏の日はすでに没していた。通りは仕事帰りのサラリーマンで溢れている。幅広の男たちを跳ね除けるように二人は走り続けた。
 仙台方向を進み、分かれ道を適当に曲がる。Cは行き先を告げず北へ走り、それをイグサは彼方を抱きかかえながら追いかけた。
「あの二人はなんだったんだ?」
「たぶん麻取だと思う。」Cは息を切らしていた。「イチと同じバッジをつけていた。あれは麻薬取締官の紋章のはずだ。私が運ぶのがどこかから漏れたんだ」
 イグサは息を切らしながら訊いた。
「麻取ならイチのことがわかったんじゃないのか?」
「だめだった。まるで聞く耳持たなかった」
 脚がもつれてCが転びそうになる。Cは倒れそうになるのをなんとか堪えて、「くそっ」と悪態をついた。車通りの少ない路地に入っていたとはいえ人目は少なくない。通行人は道端で暴言を吐く若い少女を迷惑そうに避けた。
「麻取ってあんな乱暴なのか?少なくとも正義の味方には見えなかった」
「わからない。奴らはホシを挙げるためならなんでもする。中には粗暴な連中もいるはずだ。イチはそうではないと思うが……」
 そんなことより、とCはイグサを睨んだ。「なぜ拳銃なんて持っているんだ」
 言葉に詰まった。どう説明したらいい。いきなり知らない男から受け取ったモデルガンが本物のピストルだったなんて、信じられるわけがない。
「あとで話す。とにかく、もっと遠くへ逃げよう」
 Cは懐疑の目を向けていたが、やがてまた走り出した。とりあえずやりすごせた。唾を飲み込むと、喉が張り付くように乾いていて痛む。イグサは髪を揺らして走るCを追いかけた。
 腕の中の彼方は黙ってはいるが、変わらず呼吸が荒い。イグサはときどき抱えた腕で身体をさすってやる。心なしか彼方の口元が安らかに微笑んだ気がした。
 やっぱりビルに入るんじゃなかった。そもそもCを止めるべきだった。この少女が裏社会の歯車であることを、仕方なしに納得していた自分がバカだった。運びなんてひっぱたいてでもやめさせるべきだったんだ。知らない世界に翻弄されて混乱していた。普通に考えたら誰でもわかる。こんなの狂っているし、踏み込んではいけない領域だったんだ。けれど、もう遅い。人を撃ってしまった。たぶん殺してしまった。もう引き返せない。ショルダーバッグの中で黒いベレッタがまだ硝煙の息をしている気がした。

 広瀬川の河川敷にイグサたちは出た。橋の下の陰に身を潜めていた。
「ここは危なくないか?」
「うるさい……少し休ませろ」
 しばらく走って、Cは突然「川の音がする」と言い、進路を変えた。二人は引き寄せられるように広瀬川へ向かった。
 橋台は夜で暗い。周囲からは見えないけれど、逆に探そうとしたらすぐに見つかってしまう。あの廃ライブハウスに入り込む人間は決して多くないが、確実にバレる。それに、どの角度からどこの誰が襲ってきてもおかしくない、異常な世界にもうイグサたちは染まっている。安全な場所などどこにもないのかもしれない。
 そのとき、頭の中で一つネジが緩んで取れた感覚がした。ネジが抜けた穴から血流のようなじんわりと温かい何かが溢れ出す。
 とても懐かしく、安心する精神の液体。
「ごめんね」彼方が小さな声で囁くように呟いた。「あなたから借りていたモノを返します」
 突然何を喋り出すかと思ったら、わけのわからないことを言い出した。イグサは「いいから喋るな」と宥めた。
 荒い呼吸のCにも彼方の声が聞こえたみたいで、Cはイグサに抱かれる彼方を覗き込んだ。
「借りていたもの?」
「そう。人として生きるために必要なたくさんのもの」
 苦しそうに喘ぎながら、必死に言葉を紡いだ。
「誰かと生きるうえで必要な、他人を想う力。将来を見定める創造力。自己実現のための気力。あなたのそういったモノを糧に私は存在していたの」
 薄ら開いた瞳は黒目がちで綺麗だ。小さな頃からずっと何度見ても見飽きない、僕の大切な友人の瞳だった。
「君の言っていることがわからない」
「わかるはずよ。あなたがこの世界でうまく生きられなかったのは、すべて私のせい。あなたは私に依存していたと自分で思っていたかもしれないけれど、それは逆で、私があなたを必要として執着していたの。あなたに寄生して、あなたを巣食っていたの」
「違う!」イグサは声を荒げた。「僕は君がいたからなんとか生きてこれたんだ。何もない、何もできない僕には君しかいないんだ」
 彼方は手を伸ばして頬を撫でる。
「もうそうじゃないでしょう」
「変わらないよ……」
「この世界を自分の意志で見て、感じて、歩いた。それに、あなたには守るべき意思もできた。私がいなくてもあなたは自分の心で生きていけるはずよ」
 彼方はCを見た。Cはただ、その瞳を見下ろしていた。
「さっきだって彼方が助けてくれなかったら僕は撃たれて死んでいたんだ!全部君のおかげだ。君がいない世界をどうやって生きていったらいいかわからない」
「すべてあなたの力よ。考える力、優しさ。それがこうしてあなたを救ったの。たくさん流れ出てしまって本当に申し訳ないわ」
 彼方を抱きしめていた腕に液体が滲むのを感じた。撃ち抜かれた胸の空洞から何かが漏れ出していた。彼方の背中を支える腕がぬめる。
 また頭の中で思考液の圧に耐えられずネジが吹っ飛んでいく。脳が熱い。広瀬川に吹き抜ける風がそれを冷やして心地よい。
 脳内が重く満たされていくにつれて、彼方が軽くなっていく。彼方が消えてしまう。消えてしまうのは嫌だ。ぬめる腕にいっそう力を込める。
「あなたとの生活の日々はとても楽しかった。この世界に何もないなんて言わないで。きっと、あなたにとっての安息があるはずよ」
 彼方は一つ一つを噛みしめるように言い残すと瞳を閉じた。身体がみるみるうちに縮んでいき、両手に乗るくらいのしわしわな赤ん坊の姿になって黒く変色した。色や感触といい腐ったバナナに似ていた。
 友人の醜い変貌にイグサは叫びをあげた。隣でCが思考がショートして気を失って倒れた。イグサの脳内で閉ざしていた最後のネジが弾け飛んだ。膨大な血液とともに「川に流して」、と彼方の声が頭蓋で響いた。震える両足で広瀬川に近づくと、一気に彼方との記憶がフラッシュバックした。
 彼方は誰よりも傍にいてくれたし、誰よりも会話をして、誰よりも長く触れた。すべてを共有していた。イグサがどこまでも社会から孤立しても、彼方がいたから生きてこられたんだ。それは同時に、彼方はイグサの社会的欠陥となり孤立を生み出していたことになるんだと、イグサはやっと気づいた。
 イグサは夏の冷たい川に宇宙人みたいな姿をした、かつて彼方であったものを浮かべて、手を放した。
 さよなら。たくさん愛していました。彼方がいつもみたいに後ろから顔を出して耳元で囁いた気がしたけれど、すべて幻聴だった。

仕事がありません。お金がないと死んでしまいます