霞の向こうに 13
13
イグサはコンビニで雑誌を読むフリをしながら向かいのビルを見ていた。
ビルは古い五階建てで二階のテナントには美容院が入っていた。三階より上は看板などがなく不明だ。こんな住宅街の寂れたビルの地下にライブハウスがあっても誰も気づかないだろう。廃業したのも納得できる。
腕時計を見るとCが突入してから十五分が経っていた。イグサは焦燥と不安でいっぱいだった。Cは十五分で戻ってくると言ったのに。
隣では同じように緊張した眼差しを外に向けている彼方がいた。彼方はしきりに唇を舐めながらCの帰りを待っていた。
もし、Cが出てこなかったら……。Cが失敗したり、事故があったら、どうする?僕は逃げるのか?Cを残して逃げるのだろうか。
イグサは彼方を横目に見た。彼方はそれを望むだろうか。目の前の問題に背を向け、逃げてしまうのを赦すだろうか。
恐い。今にも全身が震え出しそうだ。闇の世界に足を踏み入れてしまったけれど、まだ戻れる気がする。Cも壊れた主任もリンもモデルガンも忘れて、また明日からお客様の声にお返事を書く仕事に帰るんだ。転職して新たな生活をするのも悪くない。僕はまだ二十五だ。仕事は思っているよりたくさんあるだろう。
平和に戻って生きる。もう贅沢はいわない。何も望まない。もし彼方がいなくなってしまっても構わない。ずっと一人でもいい。けれど、そんな蓋をした生活の裏でCのような過酷で残酷な孤独が存在するのは変わらない。それらから目を背けて僕は生きていけるだろうか。今以上に虚無な人生に向き合っていけるだろうか。
イグサは腕時計を見た。さらに五分が経過している。手汗が吹き出して、開いている雑誌が汗の水分でふやけていく。先に無言の静寂を破ったのは彼方だった。
「あれ見て」彼方は廃ライブハウスのビルから三〇メートルほど先を指差した。黒いBMWが停まっている。車からスーツの男二人が出てくるのが見えた。男二人は小走りで廃ライブハウスのビルの中へ入っていった。
「なんだろうあの二人」彼方は雑誌を持つ腕の裾を引っ張った。「絶対怪しい」
男たちの走り方は、どこかCの隠密な早歩きを思わせる感じがして気持ち悪く、胸騒ぎがした。開いている雑誌が震える。彼方のほうを見ると、彼方もイグサを見つめていた。二人は小さく頷くと雑誌を棚にしまってコンビニを飛び出した。
ガードレールを勢いよく飛び越えて車道に出る。南方向の一車線を走ってくる車に思い切りクラクションを鳴らされた。構わずにイグサは対岸のビルへ走る。途中、停めてあるBMWを見た。近くに駐禁の標識があった。スーツの男たちは一刻を争うのだろう。嫌な予感がする。
ビルに入るとエレベーターに突き当たった。電光表示に「B2F」とある。イグサの胸の動悸が激しくなった。二人の男は地下のライブハウスに向かったんだ。Cが危ない。
運びの品を取りに来るにしては段取りが悪い。あんなところに駐車して駐禁を取られたら一巻の終わりだ。きっと男たちはCの客ではない。別の何かだ。
エレベーターはのろく、なかなか一階に上がってこない。切迫しているというのに。イグサは唇を噛む。隣で彼方も歯噛みしていた。
エレベーターが開くと中は空だった。飛び乗るようにエレベーターに乗り込み、地下二階のボタンを連打した。このビルのエレベーターは扉の開閉ものろまだった。
エレベーターはとてもヤニ臭かった。染み付いた臭いではあるが、一部新鮮な臭いも感じ取れた。ヤニと中年が放つ加齢臭が混ざった臭いだ。たぶん、あの男たちのものだろう。
ゆっくりと重力に押されるようにエレベーターは降下していく。すると彼方はイグサのショルダーバッグを開けて、底にあるベレッタのモデルガンを取り出した。
「それは……」本物ではない。イグサは頼りなさげに俯いたが、彼方は大きく首を振る。
「これはモデルガンなんかじゃない」
彼方はベレッタのグリップからマガジンを引き抜くと、そこには金色に光る弾が詰められていた。
「嘘だろ……」
マジよ。彼方はマガジンを戻してスライドを引き、イグサにグリップを握らせた。彼方の慣れた手つきをイグサはただ呆然と見ていた。
「トリガーを引けば撃てるのか?」
ベレッタのグリップをしっかりと握りしめる。手が自分で制御できないくらい震えていた。
「撃てる。気をつけて扱って。人を殺す道具だから」
ベレッタを握るイグサに彼方は手を重ねた。恐怖の振動が伝わったのか、彼方は「大丈夫、怖がらないで」と撫でた。「もし何かが起きてもこれで身を守れる」
これは身を守る凶器なのか、人を殺す道具なのか、混乱したままエレベーターは地下二階に到着し、のっそりとエレベーターの扉が地獄の門の如く開いた。
エレベーターを出ると中はほぼ真っ暗だった。壁を這って照明のスイッチを探したがどこにも見当たらない。視界が確保できないうえに音もなかった。イグサの足音とベレッタが壁に擦れる音だけが控えめに響いて、イグサは場違いな緊張に押しつぶされそうになる。
来るべきじゃなかった。自分は今、間違えた選択をしている気がする。
ヤニと便所のアンモニアの臭いに不快感がこみ上げる。床には薄地のカーペットが敷かれていたが、どうも湿っぽい。子供の頃、友達の家でペットのトイレシートを誤って踏んでしまったときを思い出した。靴下に犬の小便が染み込む感覚は今でもはっきりと覚えている。
壁を這っていくと、部屋の隅に突き当たった。イグサは携帯電話を取り出してライトを点けた。はじめからそうすべきだった。頭がまったく働かない。ライトを四方に向ける。エレベーターからイグサが這ってきた壁を見る。部屋を照らしてみると奥にカウンターがあって、棚に並ぶ無数の酒瓶がライトを反射した。イグサはおそるおそるカウンターへ向かう。強烈な黴と汚水の臭いがした。テーブルには信じられないくらいでかい虫が蠢いていて、イグサは悲鳴をあげそうになり、携帯を落とした。慌てて携帯を拾おうとして、ライトの先の大きな金属の扉に気がついた。防音扉だ。フロアにつながっているのかもしれない。携帯を拾ってライトを消しポケットにしまう。防音扉に触れるとひんやりと冷たい。ひどく錆びついている。防音扉は音をシャットアウトしなくてはならないため分厚く、非常に重い。イグサはハンドルをしっかりと握った。ベレッタのトリガーにも指を通す。ヤニと黴とアンモニアの臭いのする空気を大きく吸い込み、吐いた。頭の中で「大丈夫だよ」と彼方の声がした気がした。
一気にハンドルを下げて扉を開けた。照明が視界を包み込む。思わずイグサは手をかざしてしまった。眩しくて床しか見られない。その床に見覚えのある黒いリュックの一端が見えた。と同時に、「お前!なぜ来た!」とCの声がフロアにこだました。
イグサは手を退け、精一杯目を見開いた。ステージの照明がギラギラと輝く。汚れたマーシャルと崩壊したドラムセット、スピーカーが転がっている。その手前、縦に長いこじんまりとしたフロアにはBMWから降りてきた男らがいた。一人は突っ立っていたが、もう一人はCを床に押さえつけていた。
「C!」
イグサは叫んだつもりだったが、喉がかすれていてうまく声にならなかった。
「なんだお前は」
立っているの男は怪訝そうに言ったが、Cを押さえつけている男が「あいつ銃を持っている!」と叫んだ。
「武器を捨てろ!」立っている男が鋭い怒声をあげて片手を腰に持っていく。
「違う!」Cは叫んだ。「あれはエアガンだ!あいつが銃なんて持っているわけがない!」
イグサは右手でベレッタのグリップを握り左手で支え、ゆっくり前方の男たちに照準を定める。
「ほんとにおもちゃだと思うか?」乾いた喉からはっきりと声を捻り出す。
立っている男が腰から手を離し、イグサに近づいてくる。
「すまない、ヤク中の相手をしている場合じゃないんだ」
男は嘲るように笑った。首を振りながら一歩一歩イグサに向かってくる。
「その少女を放せ」
「こいつはうちで預かることになっている」
「いいから返せ。撃つぞ!」
「冗談はやめなさい。お前ら馬鹿どもの愛してやまない覚せい剤の密売容疑でこのガキは現行犯だ」
男は殴りかかった。「お前も一緒に連行してやる」
その瞬間はスローに感じた。ベレッタを握る両手に彼方の手が添えられた。耳元で「引いて」と声がした。
乾いた音がフロアに響いて、男が後ろに吹っ飛んだ。
「あっ」
男は小さく吐息をこぼして胸に手をやり、思い切り咳き込み、血を吐いた。そして、そのままぐったりとした。男から血しぶきが広がっている。
Cを押さえつけていた男が慌てて拳銃を構え、叫んだ。
「武器を捨てろ!発砲するぞ!」
倒れた男の風穴から吹き出す血液を見て、ベレッタを握る手の震えが止まる。
「早く銃を捨てろ!」
男が拳銃のハンマーを下ろした。
「やめて!」Cが男へ体当たりした。それとほぼ同時にまた発砲音が響く。イグサの視界を彼方が過ぎった。彼方は一度身体を大きく震わせて、イグサに凭れかかった。男はよろめいたが、すぐに体勢を整えて立ち上がった。
「彼方?」
イグサは後ろから首を突き出すように彼方を見た。胸に小さな空洞が空いていた。
「見ないで」彼方は小さくそう言った。
「武器を捨てろ!」
男には無傷のイグサしか見えていない。男はまた拳銃を構えた。Cが腕を掴むと男はCを振り払い、蹴り飛ばした。そしてイグサに向かって発砲した。数回破裂音が続いて、その音と同じ回数、彼方がイグサの胸の中で跳ねる。彼方の胸や腹に無数の穴が空いていくのをイグサはただ見ていた。
「なぜ当たらない……」男は不思議そうにイグサに近寄った。
苦しみ喘いでいた彼方が突然不敵な笑みを浮かべて、「死ね」と呟いた。一瞬、イグサは脳が締め付けられて収縮する感じがした。西東京の主任のときと同じだ。彼方が何かしたんだ。
男の目に穴だらけの彼方が映る。男は呆然として停止した。その途端、胸を押さえて苦しみだした。
「いあ……ふっ、ふっ、ふっ……おぉ……」
額には脂汗が滲み、歯を食いしばっている。足が縺れて頭から倒れ、両腕を交差して自分の胸を抱き、「はっはっはっ」と犬みたいな息をした。Cはそれの光景を見て絶句していた。
「痛みを……移植したの」
彼方は肩を上下させて荒く息をする。彼方に空いた無数の穴からは血も体液も出てこない。ただ魂だけが失われていく。
「ごめん……ね」
彼方は微笑んでイグサに触れた。イグサはすぐその手を握りたかったが、ベレッタが身体の一部になったみたいに両手から剥がれない。震える声でイグサは言った。
「大丈夫だから……すぐ病院とかつれていくから……」
「だめよ……私人間じゃないもの……」
彼方にこれほど実体を感じたことはない。腕の中で弱っていく彼方は本当に人間のようだった。
「あまり見ないで……恥ずかしいから……」
彼方はそう言って瞳を閉じた。
「彼方!」
彼方を激しく揺さぶる。彼方を撃った男が激しく跳ねた。
「いいから、早くここを離れて……」
目を瞑りながら彼方は言う。Cは立ち上がり、リュックを拾って、イグサの裾を引いた。
「ここにいるとまずい。彼方の言う通り早く出よう」
イグサは頷き、弱る彼方を抱きかかえた。フロアに釣り上げられた魚のように微動する男と血の海に沈む男を残して、出て行った。
仕事がありません。お金がないと死んでしまいます