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霞の向こうに 15

15

 夜の十一時を過ぎた。河川敷に吹き抜ける風がアノラックの隙間に入り、肌寒く感じる。
 失神しているCを橋台に寄りかかる姿勢で寝かせ、イグサはその隣にずっと座り込んでいた。
 ショルダーバッグからラッキーストライクを取り出す。箱を指で弾いて揺らしてフィルターをつまみ、箱から引き出す。ライターで火を点けて煙を深く吸い込み、長く吐き出した。一昨日買った煙草は十本も減っていなかった。いろんなことがありすぎて、三箱くらいはすでに消費している感覚でいた。
 彼方が死んでから、頭の中がとても重厚に満ち足りていた。いままで生きていて足りなかった脳細胞が補完されたような、空いていた部分にピースがはめられている。もう脳を締め付けられる感覚を思い出せない。どうやって彼方の存在を感じていたか、どこに彼方がいるのかわからない。ある種の物忘れに近い。けれど、もう思い出すことはないだろう。
 広瀬川は静かに流れを刻んでいる。トラックが橋を渡るとき以外はほとんど音がない。西を見ると山が連なっていて、そこに三本の電波塔が立っている。二本は近く、寄り添って立っていて、一本だけが少し離れていた。電波塔は南西からオレンジ、緑、青の順でライトアップされている。テレビやラジオの電波を発信しているんだろうか。
 咥えていた煙草が燃え尽きた。また箱から取り出して火を点ける。摂り込まれるニコチンで少し目眩がした。
 隣で、「彼方は⁉」とCが飛び起きた。暗闇の中でも目がぎらぎら光っているのがわかる。
「もういない」
「いないって……」
「死んだってこと」
 Cの強張った身体から力が抜けていくのがわかる。
「そんな……」
 悲痛に顔を歪めるCにイグサは内心冷たいものを感じた。自身の悲劇には飄々としているくせに、どうして出会ったばかりの彼方を思いやり、そこまで感傷的になれるのだろう。やっぱりこの少女はどこか狂っている。
「なんで君が泣くんだ。別に君は彼方なんてどうでもいいだろう」
 イグサは無神経に言い放った。様々なショックで自暴自棄になっていた。単純に興奮してイライラしていただけなのかもしれない。人間観の壊れているCが、他人のために泣くのが不思議でならなかった。
「お前、それでいいのか?」Cの瞳はイグサを糾弾していた。「お前にとって、この世界はあの子だけだったんじゃないのか」
 イグサは煙を吐いた。Cから目を逸らした。
「大切な人が消えるのはもう見たくない……」Cは両手で顔を覆う。
「イチは……」まだ生きているかもしれないだろう。そう言いかけて、やめた。
「イチはもういない……きっと死んでいる」
 あの子みたいに死んでしまったんだ。Cの泣き声は橋の下でよく響いた。

「蜉蝣みたいな彼方の魂が、私にも少しわかってきたんだ」Cの声は泣いたあと掠れてしまって聞き取りづらい。「あの子が最後言っていたことがほんの僅かだけど理解できる」
 イグサは口端に煙草を咥えながら言った。「僕にはほとんどわからない」
 本当はわかっている。理解するのを拒絶しているだけで、すべてわかっている。
 Cは「一本くれよ」というので、イグサは眉を顰めて怪訝な顔をしたが、この少女に未成年もクソもないなと、ラッキーストライクの箱とライターをCに投げて寄越した。Cは煙草を咥えてライターを点火するが、「火がつかない」と黒い目でイグサを見つめた。彼方の瞳によく似ている。
「煙草吸ったことないのか」
「ない」
 イグサは仕方なく自分の吸っていたものをCに咥えさせ、Cの指に挟まったものを自分の口に運んだ。
「火に向かって息を吸うんだ」
 Cに渡したライターを取り上げると、Cに見えるように、小さな炎を煙草に近づけフィルターを吸い、火を灯した。Cはその様子を見ながら、咥えていた煙草の煙を盛大に吸い込み、思い切り咽せて火の点いたラッキーストライクを吐き飛ばした。
「君には無理だよ」
 イグサはそう言ったが、Cは再び箱から一本取り出し、「次はちゃんとできるから」と顔を突き出した。
「煙草もな、高いんだぞ」イグサはCの煙草に火をつけてやった。今度は慎重に煙を吸って吐いた。けれど、少し咳き込んだ。
「おいしくないな」
 広瀬川に浮いている虚空を見つめながらCは咽せる。
「なら、もう吸うなよ」

 川の清涼な風は紫煙を乗せて街を流れる。Cはベレッタの件を切り出さない。もうそんなことはどうでもよくなってしまったのかもしれない。イグサは、彼方の声やあらゆる言葉や奇妙な温もりも煙に混じえて吐き出した。夏の夜の温さがすべてを許してくれる気がした。
「私は普通の優しさを知らない」Cは煙草を指に挟んでいた。「イチの優しさは、おそらく大部分が自分の抱えた罪によるものだ。本当の愛でもなければ体裁のための情でもないだろう」
「だいたいの親なんてそんなもんだ」
「私はイチがずっと後悔していたのを知っている。そういうのは肌で感じられる」
 産んでしまって後悔する親なんてたくさんいるし、間違って生まれてきたような人間も腐るほどいる。「君が背負うものじゃないだろう」とイグサは言った。
 イグサの言葉を遮るようにCは「でも、普通の優しさを彼方は私に教えてくれた」と嬉しそうにした。
「お前と会って、あの朝の夢で、気づいたら私は彼方を感じていた。彼方は私に温かいミルクのような落ち着く心をくれた。優しくなりなさいと。あの甘い匂いは大麻なんかじゃなくて、彼方の優しさだったんだ。私は人に優しくされると、何か裏があるんじゃないかとどこか探っていた。しばらくずっと、あの子のそれも疑っていたけれど、やっと今わかってきた。彼方が私にくれたものは裏表のない完全な愛だった。イチのそれとは違う、とても安心できる気持ちだったんだ」
 Cは煙草を吸って、煙を吐いた。
「彼方の優しさは、元はお前の優しさなんだろう。彼方から何かしら影響を受けるとき、その中に必ずお前の影がある。その温かな感情は勘違いや気まぐれなんかじゃなく、お前の純粋な人の良さから生まれていた。それが彼方の強いエネルギーとなって、理性を超えて私や様々な人間に影響を及ぼすのだろう」
「そんなんじゃない」イグサはかぶりを振る。「そんな難しく考えるなよ。バカみたいだ」
 Cは無視した。「きっと彼方はお前自身なんだ」とイグサの目を見据えて言った。
「意味がわからないよ」
 イグサは天を見上げたが、そこには暗い灰色のコンクリートが広がっている。
「彼方は僕の未熟な創造物で、僕はそれを愛していたんだ」
 隣のCの華奢な手がイグサに添えられた。
「お前の優しさは私を変えたんだ。ただそれを言いたかった」
 傍に寄るCへ吐いた煙が行かないように、イグサはCの反対を向いて煙草を吸った。
 舞う紫煙の向こう側に三色の電波塔が光っていた。

仕事がありません。お金がないと死んでしまいます