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霞の向こうに 12

12

「なぜこいつに私の過去をみせた」
「あなたがそれを望んだから」
「私はそんなこと望んでいない」
「それにしてはしっかりお話していたみたいだけれど」
「それは……」
 意識が覚醒してきて周りの音が耳に入り始めた。Cと彼方の声がする。
「こいつは一般人だぞ。知るべきじゃない人間だ」
「それは彼が決めること」
「お前は一体なんなんだ……」
 イグサは瞼を開き、息を大きく吸い込んだ。
「いいんだ。話してくれてよかったよ」
 Cは何か言いたそうに口を開いたが、何も言わなかった。
 列車は速度を落として停車する。イグサはショルダーバッグを肩に掛けて立ち上がった。
「行こう」
「お前、余計なことするなよ」
「わかってる」
 Cもリュックを背負って立ち上がった。

 人混みの中でCの後ろを追うように歩いた。新幹線を出てから、あまり近くにいるな、とCが耳打ちしたからだ。イグサは三メートルほど離れて歩いた。Cはホームを出て階段を下っていく。イグサは携帯電話を取り出しリンの番号を押した。呼び出しのコールが続く。Cを見失わないように集中して人混みを歩く。
 コールが止んだ。構内は騒がしかったが、スピーカーから「リンだ」と初めて聞くような緊張したリンの声が流れた。
「もしもし、イグサですが」
「ああ、君か」
 どうかした?とリンはさっきと打って変わって間延びした声を出した。
「カタギリキリを見つけたよ」
「おお。やるなあ、イグサくん」
 電話の向こうでリンは、ひゅう、と鳴らす。歩く速度を落として、よりCと距離をとった。Cに会話を聞かれないよう注意を払う。
「で、どこにいるの?」
「仙台。今、新幹線を降りた」
「仙台?」
「これから仙台で用があるみたいだ」行き先、目的は伏せることにした。
「そうか」
 たまらず、イグサは訊いた。
「リンはなぜこの子を追うんだ?」
「言っただろう?クライアントの情報は話せないと」
「一体どこまで知ってる」
 イグサは小さな声でできる限り凄みを効かせた。Cがそうしていたように。
 電話の向こうで少し沈黙が流れた。
「君はターゲットに接触したな?」
 ひやりとしたものが背筋に流れた。携帯を持つ手が震える。
「君には、カタギリキリを見つけ次第俺に連絡しろと言ったはずだ。それからは俺の仕事だ。君にあまり話をややこしくしてほしくないな」
 リンの声には抑揚がまったくと言っていいほど無かった。だが、すぐに大きなため息をついて、
「まあいいよ。君はプロじゃないからね」といつもの調子に戻った。
 イグサは何も答えなかった。
「とりあえずそのままカタギリキリをロストせずに続けてくれ。そっちに向かう」
 電話は切れた。
 リンの態度の変容に肝を冷やしたが、切り替えてCを見失わないように後ろをついていく。Cは新幹線を降りてから一度もイグサの方を振り返らなかった。
 リンは何者なのだろう。なぜ、カタギリキリを探していたんだ?
 リンが言った「プロ」とは何を指すのか。これは単なる人探しではないんじゃないか。Cの言っている組織に、やはりリンは一枚噛んでいるのか。頭の中で様々な謎が渦を巻いていた。
 バッグの中のベレッタというモデルガンが急に異様な存在感を放つ。
 これ、ほんとにモデルガンか?

 改札を抜けて仙台駅の西口を出た。仙台は雨が降っていなかった。。東京のどんよりとした雲はここでは見当たらない。立ち並ぶビルの間から夕日が差し込み街がオレンジ色に染まっている。駅には黒い大時計があり、時刻は六時十五分だった。
 イグサは黒のアノラックを脱いでバッグにしまう。Cは立ち止まらずに歩き続け、高架歩道を降り、そのまま地下へと続く階段を進んだ。迷いのない足取りだ。
 地下通路の先には地下鉄のホームがある。通路を歩く人々は皆涼しい格好をしていて、厚手のパーカーに黒のパンツのCは浮いている。けれど、早歩きともいえるスピードで歩き続ける彼女を見とめる者はイグサ以外、誰一人いなかった。
 Cは地下鉄の改札で切符を買い、さっさとホームへ行ってしまった。イグサはCの行き先がわからず、とりあえず千円札を入れてどうでもいい泉中央方向の一番高い切符を買い、急いでホームへ向かい、Cを探した。
 ホームにはちょうど富沢方向の電車がやってきて、Cがそれに乗り込むのが見えた。滑り込むようにしてイグサも車両に乗る。
「買った切符逆だったね」と彼方が笑っている。
「Cが早すぎるんだ。仙台の土地勘なんてないし、もうわけがわからないよ」
 汗まみれで愚痴をこぼすイグサにCも笑った。
「お前ほんとに間抜けだな」
「近くにいちゃいけないんじゃないのか?」
「ここなら見られないだろう」
 車両を見回すと乗客はイグサと彼方とCを除いて三人しかおらず、そのうち二人は親子で子供は座りながらシートに倒れて眠りこけていた。もう一人はお婆さんで、どう見ても裏社会とは縁がなさそうだった。
「ほんとに素人なんだな」
 Cは呆れているが少し楽しそうだ。笑うと綺麗な娘なのにな。
「普段からやってる君には敵わないよ」
「練習してどうにかなるもんじゃない。こういった秘密行動は天性による能力だ」
「なら諦めるよ」
 そうしろ。Cはイグサのシャツの襟を掴むと思い切り引き寄せ、耳打ちした。
「これから長町で降りる。駅から三百メートル南下したところにある廃業したライブハウスにブツを持っていく。お前はライブハウスの向かいのコンビニで雑誌でも読んで待ってろ」
 耳元で話されてこそばゆい。すぐにCは襟から手を離して背を向けた。
 別に普通に話せばいいだろう。折れたシャツの襟を直しながらイグサは思う。彼方は口を閉じて微笑みながら二人を見つめていた。それがイグサには妙に気味悪く映って何か言いたくなったが、途中の停車駅で乗客が増えたため堪えた。車内のクーラーで汗が冷えていく。濡れていた背中の気持ち悪さもだんだんなくなっていった。
 地下鉄は長町に到着した。仙台から二十分もかからず思ったより近かった。ホームに出てCは顎で前方の階段を指した。仕方なくイグサは先に階段を登った。改札で駅員に富沢行きの切符を払い戻そうともたついていると、Cが聞こえるように舌打ちして先に改札を出ていった。あとから追いつくと、Cは「怪しい連中がいるか先に地上に出て見てこい」とイグサを蹴った。
 仙台ではCの方が先に地下に潜っていったのに。イグサは南口に出る階段を登る。Cの言動が不安定なのは現実でも夢の中でも目の当たりにしてきた。運びの最終段階が近づいて余計ピリついているのかもしれない。
 南口から地上に出ると辺りは暗かった。夕日は既に沈んでいるし、通りに街灯が少ないからだ。道路は仙台方面に二車線、反対は一車線。車は途切れることなく走っていた。通りには学校帰りの中学生や主婦ばかりが歩いていた。怪しい格好も派手なヤンキーも見かけない。イグサは地上から階段下のCに見えるように親指を立てたサインを突き出した。しばらくしてCが地上に上がってきた。
「なんかただの住宅街って感じだぞ」
「知ってる」
 Cは南方向へ歩き出す。早歩きのCにイグサはついていく。
「君は何度も来ているのか?」
「ああ」
 地下鉄で冗談みたいに笑っていた少女が嘘みたいに闇の運び屋の姿になっている。変わりようにイグサは驚かされた。淡々と歩き続けるCの黒い髪は歩調に合わせて揺れる。電話で感じた相手を押さえつける雰囲気が背中から放たれている。薬物が詰まったリュックがとても重そうだと、イグサは思った。
 イグサたちが歩いている歩道の対岸にコンビニが見えた。さっき地下鉄でCが言っていたコンビニとはこれのことだろう。
「十五分もかからないと思う」Cは歩きながら言った。「もし私が戻らなかったら、お前はすべてを忘れて東京へ帰れ。そして何事もなかったように生きて死ね」
 わかった。イグサはしっかりとCに届くように返事をした。Cは何も反応しなかったが、後ろから彼方に手を握られて振り返った。
「気をつけて」
 Cは目を丸くしたが、少しして「わかっている」と微笑んだ。恐れや慢心は微塵もそこになく、精一杯の優しさが込められていた。
 廃ライブハウスが近づいてきたのか、彼方は握っていた手を離し、止まった。それに合わせてイグサもCを追うのをやめ、その後ろ姿を見ていた。

仕事がありません。お金がないと死んでしまいます