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霞の向こうに 16

16

「遅くなって悪いね」リンはそう詫びたが、疲労の滲んだ顔から、休みなく高速を飛ばしてきたのがよくわかる。イグサが連絡を入れたのが六時、仙台に到着したときにはまだ日付の変わっていなかったからちっとも遅れていない。ボルボのエンジンが興奮しているのが座席の振動から伝わる。
「君たち煙草くさいねえ」
 リンは窓を全開にして仙台の複雑な交差点を通過した。後部座席のCは虚ろな瞳で外を眺めていた。
 Cにはリンのことを伝えていなかったからはじめは警戒していたが、現状リンの手を借りて仙台を離れる以外に選択肢はなく、素直に従った。
「煙草を吸うしかやることがなかったんだ」
「退屈してたんだね」
「そうでもない」
 イグサはショルダーバッグからベレッタを取り出した。
「なんでこんなもの僕に渡したんだ」
 リンは問いに問いで返す。しかし、リンは一喝した。
「なぜそれを持ち歩いている」
 ハンドルを握る手に力がこもっているように見える。爪はバーで見たときと同じ緑色に塗られている。アクセルが若干強く踏まれて、イグサは加速に身体がもっていかれそうになった。
「モデルガンだとわかっていたら持ち歩かないはずだ。なぜ言った通り保管しておかなかった」
「なんとなくこれが武器になるような気がしたんだ」
 リンは苛立っているのがわかる。
「もし警察にバレたらどうするつもりだったんだ。君はそれをもっているだけで捕まるんだぞ」
「あなたが渡したんじゃないか……」
「あのな」人差し指でハンドルを叩く。「俺が爆弾を手元に置いておくわけないだろ。常に身を潔白に保つのは俺たちの基本だ」
「まさか、僕に渡して隠していたのか」
「そうだ。まあ、この件に巻き込んだのは俺だし、無責任だったとは思うけどな。それでもまさかエアガンを持ち歩く男だとは思わなかった」
 イグサは舌打ちをしたかったが、堪えた。
「君は朝から晩までつまらなそうな仕事に勤しむ腐った社会人の目をしていたからね。隠すのに適している踏んでいたんだが」
 ははっ、とリンは嘲笑する。
「まあ、とりあえずカタギリキリを見つけ出してくれて助かったよ」
 後部座席でCが顔色を変えた。
「どういうことだ!イグサお前、スパイだったのか⁉︎」
「まあまあ、お嬢さん落ち着いて」
 先の信号が黄色から赤に変わった。
「俺は便利屋だ。君に用があって、この男を遣って君を捜していたんだ」リンは車を停止させた。
「斎藤一紀、でピンとくるかい?」
 Cは目を丸くして叫んだ。「イチが生きているのか!」
「今生きているかは知らない」
 リンはきっぱりと言い放つ。身を乗り出していたCは落胆した。
「五日前に斎藤一紀が金の入ったトランクケースを持って俺に会いにきた。カタギリキリという女に渡せと言ってね」
 信号が青に変わってボルボを発進させる。
「最初は一種の有名人かと思って頭の中のリストを探ったが、カタギリキリという名に覚えがない。住所や連絡先を聞こうとしたら男は教えてくれないんだ。解決できそうな依頼じゃないから断ろうとした。そしたら、俺にそのベレッタを向けるんだ。もう断れないよね」
 リンはまた声を上げて笑った。バーで会っていたときと印象が違う。東洋人にも西洋人にも見え、二つをミックスしたような風貌はいつも印象を曖昧にさせた。
「はっきり言って脅迫だ。でもそのベレッタを置いて、これも渡してほしいって言うんだ。意味わからないし手がかりはないし複雑そうだったけど、まあ、漸くここまできたってこと」
 イグサは手元のベレッタを見やる。
「これって……」イグサが言いかけたことをCが口に出した。「イチの拳銃なのか?」
 頭が飽和していく。
「どうしてこの子に渡すなんて依頼をしたんだ?」
 イグサは声を荒げていた。後部座席のCも必死の形相だった。
「男は何もわけを話さなかった。もし果たせなければすべてを処分して忘れろ、と。その場合、依頼品は返すと、便利屋は信用問題だからこちらで処分できないと伝えたが、何も言わず去っていった。トランクケースの中はゆうに五百万は入っていた」
 また信号が赤に変わって、リンは停車させる。
「女に巨額の金をわけも話さず渡せ。これは確実に消える。どこの線から俺を知ったのかわからないが、とにかく困ったね」リンはブリーフケースからある新聞の切れ端が入ったファイルを取り出した。「斎藤一紀が来た翌日の朝刊にこれが載っていた」
 イグサはそれを手に取り、車内のライトを点けてCにも見えるように掲げた。二人はクリアファイルの中の新聞の切り抜きに顔を近づけた。

多摩川に変死体、浮かぶ
 八月四日、多摩川の河川敷に厚労省職員とみられる男の水死体が発見された。四日明け方、スーツ姿の男が浮かんでいると調布市の郵便局員が通報。警察が現場に駆けつけ、水死体引き揚げたところ、死体は変死体で、死因は不明。身元を確認できるものはスーツの厚労省所属を示すバッジのみ。腐敗状況から、死亡して時間はさほど経過しておらず、警察は現場付近の調査を行うとともに、自死、殺人事件の両面で捜査をしていくと発表した。

「これは……イチなのか?」
 Cはイグサからファイルを強引に奪い取った。
「君の言うイチなる人物が斎藤一紀なら、そうだと思う」
 リンはアクセルを踏み、車線を変えて高速へ向かう道に入った。
 Cは何度も紙面を見返している。そこに書かれている内容を呑み込もうとしては吐き出してしまう。
「イチは、本当に死んだのか……?」
「君は彼から何も聞いていないのか?」
 Cは首を振る。
「何も、知らない」
「そうか」
 リンのボルボは一度通った道を辿るように高架線を走った。

 後ろで横に蹲るCから何か音が聞こえた。携帯電話だ。はじめはリンもイグサも触れなかったが、しつこいくらいコールが鳴り止まない。流石に痺れを切らしたリンがバックミラー越しに「おい、出てやれよ」と言った。
 Cはもぞもぞと身体を動かして携帯を取り出して開いた。
「えっ」
 Cは飛び起きて、突然リュックを漁り出した。「無い……」携帯電話はまだ震えている。
「どうした」
 イグサが後ろを振り向いて声をかける。Cは携帯電話の画面をイグサに見せた。人の名前ではなく、見知らぬ番号が並んでいた。
「誰だ?」
 高速を走る対向車線からのライトでCの表情が見えたり見えなくなったりした。微かに見えたCの顔は引き攣っていた。
「あの赤い携帯からだ……」
 あの赤い携帯?西東京の主任が持っていた携帯電話のことだろうか。あの携帯は……「Cが僕から奪ったじゃないか」
「それをたぶんライブハウスで落としたんだ」Cは震えて歯をかちかちと鳴らした。「誰かに拾われたかもしれない」
 ライブハウスの惨劇がバレてしまったのか、それとも麻取の二人はまだ生きていたのか?
 困惑するCにリンが言う。「出なくていいのか?」
 Cは動かず黙っている。イグサも恐怖で何もできなかった。どうかこのまま逃げ去りたい……。彼方もイチも消えてしまった今、この闇の世界に何も用はない。この黒いボルボの箱舟で遠くへ行かなくては……。
 二人が無言で祈っていると、長かったコールが鳴り止んだ。でも安堵したのは束の間、今度は一度だけ携帯が震えた。Cは油断していたのか後部座席で跳ね上がった。携帯を見て、「メールだ」と言った。
「文面は?」
「……ない」
 文面がない?
「けれど、添付ファイルがある」
 ウイルスとかじゃないだろうな。イグサがそう言おうとする前にCはメールの添付ファイルを開いてしまった。携帯のライトが照らされた顔は引き攣っている。
「お前、これが誰かわかるか?」Cはイグサに再び携帯の画面を見せた。「私はこいつを知らない」
 添付ファイルは写真だった。青白く、所々に血が付着した生首だった。この顔はこないだ見たことがある、「カトウだ」とイグサは叫んだ。
「西東京の主任のリストとやらに触れた可能性があるうちの新入社員だ……。三日前にバックれた……」
 名簿の顔写真では気色の良かった男が大根みたいに白くなっていた。首の切り口はノコギリか何かで雑に切られた痕がある。死んだ目は綺麗に焦点を合っていて標本のようだった。
「こいつから漏れたのか……」Cは携帯電話を操作している。「西東京の奴は前から麻取にマークされていたんだ」
 イチの死を知って塞ぎ込んでいたはずのCがどうしてか持ち直していた。いや、Cはいつ襲われるかわからない、そんなギリギリを生きてきた人間だ。集中力が生命線なんだ。
「あの赤い携帯電話のGPSは辿れるようにしてある。今、調べる」
 どうして個人の携帯電話の位置情報がCにわかるんだ。イグサは気になったが、聞かなかった。代わりにリンが「なんの話をしているんだ?」と口を出したが、二人は無視した。
「麻取がカトウを殺したのか?」
「違う。麻取はそんなことしない。組織だ。おそらく私らへの見せしめだ」Cは目を凝らして画面に見入る。「赤い携帯の所在がわかった……。ここはどこだ……?動いている。国見SAが先にあって……」
 イグサは正面を見た。「国見十キロ」の標識。
「それ、自分の携帯電話の位置じゃないか?」
 すると、リンは二人に後ろを見ろと指を差す。
「なんか爆走してる白いメルセデスいるけど、知り合いかい?」
 後続の車に異常な速度で飛ばす白い車があった。
「あれにGPSが反応してる」とCは言った。

仕事がありません。お金がないと死んでしまいます