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友人とシーシャを吸いにいったときの話

先日、友人たちと飲み会をした。
そのまま駅に向かわずノリで友人の一人と僕は北千住の水タバコを吸いに行った。
小さな店で先客のグループと僕たちだけだった。

お店はリラックスした雰囲気で店内は落ち着いた音楽が流れていた。
壁にはプロジェクターから映し出されたNetflixの洋画が流れていた。
目の前のグループの1人であるAが鬼滅の刃がいいと言った。

AはCに対して言ったのだろうか。Bは何も言っていなかった。 Cはその言葉を聞くと即座に店員を呼び出し、鬼滅の刃を流してもらえないか聞いていた。僕たちもいたので店員は僕たちに確認をとった。特に理由がなかったので僕たちは同意した。
だが、少し違和感を感じた為、シーシャを楽しみながらもそのグループに注意が向いていた。
鬼滅の刃が流れる。無限列車編のアニメ版だ。何話からがいいかCはAに聞く。
AはCに答えると店員にお願いをしていた。同意した僕たちに「すみません、すみません。」と何度も謝っていた。異様な違和感を感じた。

Cは「ここが面白いよね」と会話を盛り上げようと話していたがAとBはあまり反応せず、Cに対して「呪術廻戦が見たい」と溢した。Cは即座に店員を呼び出した。しかし店員は「家のNetflixではなく他のお客様もいらっしゃるので....。」と断っていた。
また、Cは「すみません、すみません。」と店員と僕たちに謝っていた。

僕はその光景をみながら、友人に何故か脈略もなく映画ジョーカーの話をしていた。

彼らはレモンサワーを頼みシーシャを吸っていた。
Bは吸い慣れていなかったのか分からないが、数分後トイレに駆け込み遠くから嗚咽が聞こえてきた。
少しすると、店員がグループに立ち寄り暗に退店を仄めかしていた。
Cはまたもや「すみません、すみません。」と連呼し、支払いをしていた。シーシャは1人1台で、合計3台だった。
金額はチャージ代とシーシャ1台で、1人2700円はする。
1人1台だったので、最低でも8100円それに加えて、飲み物代だ。
Aは財布を出さずにCのみが支払いをしていた。CはトイレにいるBに寄り添い声を掛けていた。Bは立ちくらみながら退店していった。Aも自分の荷物を持つと退店した。CはBの荷物を抱えながら、やはり何度も店と僕たちに「すみません、すみません。」と謝っていた。大丈夫な事を伝えたがCの耳にはどうやら届いていないようだった。
グループが立ち去った後、僕は友人に違和感について話した。
やはり、友人も感じていたようだった。
店員は僕たちに謝罪してきた。当然だが店や店員は何も悪い事していない。
そして僕は不快というよりも、あのグループの人間関係に胸が引っかかっていた。
店員に気遣ってくれた感謝と気にしていないことを伝え、引き続き僕たちはシーシャを吸っていた。
友人との時間を楽しもうとしているが、僕の脳内では、違和感である”彼らは本当に友達なのだろうか?”という言葉が脳裏を何度も走っていた。
彼らのことを僕は何も知らない。憶測で人や関係性を判断するのは良くないと思いつつも考えてしまっていた。

年齢は…大学3年生程だろうか、社会人1〜2年目の様にも見える。
当然だが、彼らの関係性や素性にについて知る由もないのだが….。
お節介なのは承知だが、Cは自分を大切に出来ているのだろうか?
僕の自論に、人間は自分に価値があることしか選択肢ないというものがある。Cの選択は自己否定と自己犠牲の上に成り立つAとBに対しての、異様ともいえる承認欲求と歪んだ帰属意識のように僕には見えてしまった。

僕はただ異の顛末を見ることだけしか出来なかった。当たり前だが、僕に何も出来ることは無いのだ。僕が関わる問題でもないことも分かっている。
突発的に僕がアクションを起こしてもCを逆に追い詰めることになるかも知れない。
喧嘩を来店前にしていて、偶々そんな雰囲気だったのかも知れない、僕が知らないだけで、その様な形の友人関係があるのかも知れない。そもそも友人関係ではないのかもしれない。

分からない。

全て僕の憶測だ。ただ、もしも憶測が当たっていたとしたらと思うと、見ていることしか出来なかった自分への無力さに打ちひしがれてしまうのだ。


翌日どうして、自分があんな心境に陥ったのか考察してみた。

僕はCを映画ジョーカーの主人公に重ねていたのだと思う。
だから、何も脈絡もなく突然友人にジョーカーの話をしてしまったのだろう。
仮に僕の憶測が当たっているのだとしたら、悪人になる前のジョーカーを僕はみていたことになる。
それなのにも関わらず、自分の価値観やエゴ、リスクを回避することを優先した。
だが、僕の選択は何も間違っていないとも思う。
人は自分がまず第一であるから。
自分を大事にしなければ他人を思いやることは出来ない。それに誰に対しても思いやりを持って接するのもまた、違うと考えているからだ。

自分は悪い事をしている訳ではないし、罪悪感を僕が抱く必要がないということは頭では理解している。
分かっている、分かっているのだが、それでも僕は映画ジョーカーの主人公や京王線での事件の犯人が誕生するのには、僕にも少しばかりの責任あると思うとやるせなさで胸が苦しい。
だから、僕は今こうして捌け口としてnoteを書いている。


あなたはどう思いますか?

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追記
時間が経ち改めて考えてたが、僕にはCには何も出来ないのが結論だ。あの時の僕の行動の選択は間違っていなかったと思う。
ただ思うことは、やはり自分を大事にしなければ人に思いやりを持って接することが出来ない。
僕は自分が大切にしたい人や人たちに対して可能な限り思いやりを持って接したい。だから、その為にも改めて自分を大切にしようと思った。そして、それがジョーカーを生み出さないことに関与できる僕の唯一の方法なのではないだろうか。

なぜなら僕を含め、誰もがジョーカーになる可能性は潜んでいるのだから。

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