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『魂の自由を表現する』(2019年6月「ペチャクチャナイトin姶良」自戦解説(今さら))

20枚のスライドを使い、1枚当たり20秒で(勝手に)切り替わるそのスライドについて話すイベント「ペチャクチャナイト」

ペチャクチャナイト姶良


昨日、霧島市で行われたものを見てきたのですが、2019年6月に姶良市ウェルビークラブで行われた「ペチャクチャナイト姶良」に、私が登壇した時に考えていたことを、今さら書いてみようかと思いまして。


「群像2021年12月号」において、高橋源一郎さんと穂村弘さんが対談で、高橋さんの実質的デビュー作「さようなら、ギャングたち」について語っている。


曰く、高橋さんはその小説で「軽さ」を「自由」を表現しようとしていたのだと。そうしてそれは、私たちがどうしても逃れることができない「重力という重さ」から「小説」という手段を用いることで「逃れる」実験であったと。


もちろん、ペチャクチャナイトには20×20=400秒の枠(定型)がある。だけども、1枚のスライドについて、20秒しかしゃべってはいけないというルールは無いし(実際、1つのスライドについて話そうと思っていて20秒に収まらないことはあるし、複数のスライドで1つのことを説明しようとすれば、しゃべりは枚数×20秒に広がることになる)、そもそも、しゃべることとスライドが連動していなければならないというルールも無い。

ということで、私の発表は、登場は客席から(ディナーショーを意識した)、話すことと一切関係のない、おもしろ写真をスライドにして、話すこともわりとどうでもいいことを話し、スライドの裏側に回ったりして自由に動き、後半は歌を歌うという、主催者がよく怒らなかったなあ、というものになりました。

あくまでも、400秒という枠はあるから、それを(俳句における五七五のように)定型として壊すことなく、その上で、自分にできる「自由」を表現しよう、と。

思えば、鹿児島未来170人会議でもそうだし、おはら祭でもそうで、県民交流センターの庭でそうめん流しをするのもそう。
私は「自由」を表現するために、表現をしている、そう、あらためて思うのです。

ペチャクチャナイト姶良2


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