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茨城ドライブ②~小学校の通学班考察と常総市のドタバタ合併~

前回に引き続き、茨城ドライブをお届けします。
利根川を渡り、茨城県坂東市に入ったところでした。

前置き:高速よりも断然下道

前回言い忘れましたが、この日は朝5時に出発し、オール下道でここまでやってきました。
高速道路は遠方へ一気に移動できる利点がある一方、どうしてもその途上にある地域をじっくりと見ることができません。
大抵の高速道路は両脇を防音壁で囲まれ、街並みや農地といった風景を眺めることが難しいです。

こういった観点から、私は一人旅では極力下道を使用することを心掛けています。
旅は目的地よりも、そこに行くまでが面白かったりするのです。

というかむしろ、そっちがメインです。
車を運転しながら、この地域はこんな建物が特徴的で、こんな産品が獲れて、こんな歴史があるのか、というのを考えていくスタイルです。
一人旅だからこそできる贅沢だと、私は思っています。

小学生の通学班についての考察

さて、話を戻すと茨城に入ったのは朝の8時前。平日なので、当然通勤通学の時間帯です。
東へ車を走らせていると、歩道をランドセルを背負った子供たちが5~6人ごとに一列になって歩いています。
各所の横断歩道には、旗を持った大人が立って子供たちを誘導していました。

その光景を見て、なんだかとても懐かしい気分になりました。
田舎出身の私も、小学生の頃は彼らと同様に田んぼの真ん中を一列になって登校したものだな、と。

こうした登校方法は「通学班」と呼んでいました。私の中では一般的で、日本全国どこでもこのような方法をとっているのかと思っていましたが、調べると意外にも地域によって違いがあるようです。
通学班の形式をとっている地域もあれば、完全に個々の児童が自由に登校する地域、下校時まで班単位で下校する事例もあるようです。

児童の安全性を考慮すると、複数人で登下校するのが安全だとは思いますが、一方で歩くスピードの速さとか、遅刻する児童の扱いとか、通学班にもそれなりの課題はあるようです。
思い返してみると、確かに毎朝遅刻する奴、いましたね…。
(その度に母親が出てきて申し訳なさそうに「先行ってていいよ」と言われていたのが印象深いです)

(参考)小学校の集団登校「トラブル多発で廃止」の声に論争が巻き起こる

毎年班の編成を変えるところもあるみたいですね。
私の地元は田舎なので、そもそも児童数が少ないことと、住宅街のように家が密集しているわけではないことから、集落ごとに班が固定されていたので、班のメンバーは入学・卒業による入れ替えくらいでした。
卒業によって班員が1~2名になった場合は、隣の班と統合なんかもしていたようですが。

私の地元の話ばかりで恐縮ですが、通学班では最上級生が「班長」としてその班を率いる役割が与えられます。
その証として、「班旗(はんき)」と呼ばれる50~60cmくらいの木の棒に「横断中」と書かれた黄色い布を付けたアイテムを持たされていました。
通学中に横断歩道を渡る際、これを使用して車に自分たちの存在を示すわけです。

まあ、小学生ですから真面目に使う機会はほぼなく(もちろん正規の方法で使用する子もいたと思いますが)、大抵は友達とのチャンバラか野球のバットとして活用しておりました。恥ずかしながら。
小学生にとって細くて丈夫な棒は、伝説の剣に等しいので仕方ないですね。

ただ、このアイテムを持つことによって、自分が班の代表である、という意識を持つことができたのも事実であると思います。
私が所属する班では、私の1つ上の代が不在だったため、5年生から班長の役割を賜りました。
下級生を従えて毎日登校するのは、小学生なりに責任感を持てたのかなと思っております。
些細ではありますが、役割意識を醸成できるという意味では、この制度の意義があるのでは、と考えた次第です。

通学の様子から見る子育ての難しさ

さて、茨城に話を戻すと、坂東市内の小学生は自転車のヘルメットのようなものをかぶっておりました。
もしものときの頭部保護用でしょうか。通行量の多い幹線道路があると、安全性の面からそのような措置がとられていてもおかしくはないかもしれません。
かたや隣の常総市内では、ヘルメットの代わりに黄色い帽子をかぶっていました。自治体の方針の違いでしょうか。個人的にはこちらのほうが馴染みがあります。

また、横断歩道で旗を持つ方は子供たちの母親と思われる女性が多いイメージでした。
私の地元の場合は基本的には地域のおじいちゃんおばあちゃんがボランティアでやっていたイメージですが、たまに当番制で母親も派遣されていたと記憶しています。

今思えば、何かとバタバタする朝にそのような当番までやるとなると、親にとっては結構な負担です。
私にはまだ子供がいないので想定の域を出ませんが、このことにとどまらず学校関係の当番のようなものは多く存在するものなのでしょう。

いつの時代も、子供は地域の宝です。
地域ぐるみで子供たちを見守る体制が整っていれば、親も子も安心して生活ができることでしょう。
親世代になった今、次世代を担う子供世代を地域でどう育てていくか、という課題は眼前に提示されつつあるわけですが、自力のみでは余裕を持った子育ては難しいのでは、と思ってしまいます。

思えば、私の周辺のパパママからは、子育ての大変さしか耳に入ってこないのです。
そんなに大変なのか…とどうしても尻込みしてしまう今日この頃です。
自分の子供の世話で手一杯な中、地域の子供にも目を向けることが叶うのか?と考えてしまいます。

今、何も子育ての知識がない中でこう思っていますが、子供ができて、本当の親となったら、子供たちを育てるということへの覚悟が決まるものなのでしょうか。
その覚悟ができていない自分は、まだまだ子供なのかな、と思ったりもします。
誰もが楽しく子育てができるような、そんな世の中になってほしいという願望丸投げで、とりあえずこの話題は終えることにします。

常総市の由来

いろいろと考えているうちに、坂東市から常総市に入りました。
常総市は、水海道市と石下町が平成18年1月1日に合併してできた市です。

「常総」と聞くと高校野球ファンとしては常総学院を思い浮かべます。
茨城県の甲子園常連校なわけですが、こちらは土浦市に所在しています。
そもそも「常総」とは何でしょうか?

茨城県及び千葉県北部の旧国名である「常陸」「下総」から一字ずつとって「常総」という呼び方をしているようです。
とはいえ、そのまま考えると茨城全域と千葉北部を指す広域地名のように思えます。

前回の坂東市同様、住民にとって身近な呼び名であれば良いのですが、実際のところどうなんでしょうか。
古い資料ですが、合併当時の資料があったので引用すると、以下のとおりです。

<基本項目3「新市の名称」の決定手続き・理由> 公募 無 
決定手続:合併協議会において、決定した。
選定理由:2 市町が従来の枠組みであった合併協議会において、名称公募をしたところ多数の応募があったものでもあり、当地域では歴史があり鉄道名や広域事務組合名などで使用されていることから、知名度も十分なものであるため。
http://www.toshi.or.jp/app-def/wp/wp-content/uploads/2013/09/jousou060411.pdf
公益財団法人日本都市センターより

確かに、市内を関東鉄道常総線が縦断し、消防やごみ処理などを複数市町村共同で実施する広域事務組合の名称としても採用されているところです。
ただ、現在の常総市域を指す名称というよりは、やはり周辺地域を含んだ広域を表しているような気がします。

また、合併の経緯が少々複雑だったようです。
当初、水海道市と石下町ではなく、水海道市とその東側にある伊奈町と谷和原村の3市町村で合併協議を進めており、この時に新市の名称を公募して、「常総市」に決まったそうです。
しかし、市役所の位置を決める際、当時の水海道市役所ではなく新市の中心付近である谷和原村となったことを受け、水海道市が合併協議会を離脱したのです。

その後、水海道市は急遽北に隣接する石下町と合併協議会を立ち上げ、水海道市に石下町を編入する形での合併としました。
その際、通常であれば新市名は編入する側である「水海道市」となるものですが、石下町側に配慮して名称を変更して「常総市」としたのです。

ちなみにですが、水海道市との合併が破談となってしまった伊奈町・谷和原村は、その後2町村で合併協議会を設置し、現在「つくばみらい市」となっています。
この市ができた当初は、自治体名も来るところまで来てしまったか…と思った記憶がありますが、このような背景事情があったことを考えると、なんとも言えない気持ちになりました。

(参考)
詳細情報(市区町村変遷情報) (uub.jp) ※水海道市+伊奈町+谷和原村
詳細情報(市区町村変遷情報) (uub.jp) ※水海道市+石下町
合併までの経緯 | つくばみらい市公式ホームページ (tsukubamirai.lg.jp)

前回今回にわたって平成の大合併で誕生した市たちを掘り下げてきましたが、やはり広域地名となると一体どこにあるのかがつかみにくいな、と感じました。
ただ、このことは平成の大合併だけに言えることではなく、昭和以前の合併の際にも同様のことが起こっていたはずです。
時の経過とともに、誰もが慣れていくものなんでしょうかね。

ということで今回はこの辺で。
次回は謎の天守閣と将門について掘り下げます。

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