【しょうへいコーチ】自己紹介③高校編

高校1年生、春。
私立高校をまさかの首席入学。
一般入試の結果、特進クラスで一番の成績だったことが入学前に分かった。
入学式で登壇してあれを読んでほしいと学校から連絡が来たのだ。とても驚いた。
そんなことはさておき、高校の部活動が始まった。高校の部活動は、とにかく練習量が多くハードだった。先生もめちゃくちゃ厳しい。鬼のようだった。「これが高校サッカーか!」と、中学との違いを痛感する反面、夜遅くまで自主練習が十分にできる良い環境だったので嬉しかった。
高岡第一高校はスポーツに力を入れている学校で、バスケ、バレー、バドミントンなど全国常連校である。富山県の中ではかなり施設が揃っている方だ。バドミントンなんか、日本代表選手を輩出しているほどだ。
そんな高岡第一高校ではとにかく走って、とにかく自主練した。筋力トレーニングもした。
勉強も手を抜くことなく、毎日毎日、文武両道と言える時間を過ごしていた。しかし、激しいトレーニングと自分の身体のアライメントのズレから慢性的な怪我を発症し、離脱期間が多かったのだ。中学の頃も良くケガをしていたものだ。全ては小6の時の重いものを無理に持ったときのぎっくり腰が原因であったのは後に話そう。このころから身体のことをもっと知ろうとスポーツ分野の勉強をするようになった。チームに来てくれたフィジカルトレーナーや、兄の紹介で通ったコンディショニングトレーナーの方々の影響もあり、トレーニング科学やコンディショニング、スポーツ医科学にものすごく興味を持った。また、怪我で離脱中に外からサッカーを観ることで得られるものがあるというのを知ることができた。とても良い収穫だった。
僕がいた時は、主な指導をする先生の2人ともがプロレベルの実力がありプレーで魅せてくれるし、言葉にも説得力があった。先生たちのプレーだけをずっと観ていた。何がちがうのか、どこを見ているのか、何で判断して動いているのか、どんなリズムで動いているのか、どのメニューも出来るだけ間近でじっくり観察した。

1年生の冬。
富山の冬は雪や雨が多く、外でのトレーニングがなかなか難しい。屋内小体育館でのトレーニングがほとんどで、屋内だとグリップが効くのでグラウンドよりクイックに動くことができる。ようやく気がついた。やっと先生の感覚を掴んだぞと。こう来たらこうできる、こうしたら相手はこうなる、絶対にうまくいく方法がある、その状況を意図的につくる。正しく見る力、正しく判断する力、正しく予測する力があってその上で初めてどう動くべきかがわかる。数学と一緒だと思った。それは、1-1の状況に限らず全てにおいて方程式や法則みたいなものがあることが分かった。すると自分とチームの課題が一気に明確になった。誰がどの程度の理解度レベルなのか。フィジカルやアジリティーのレベルはどうかなどもいろいろ考えるようになった。チームメイト全員の特徴と改善点も分かった。これはおもしろい。早く復帰して試したい。
怪我から復帰し、トレーニングで実践してみる。すると、おもしろい程にうまく行く。と同時に自分の課題も分かった。確かな感覚がそこで得られたのだ。
次第にプレーで目立つようになり、まわりからも一緒に練習をしようと言われるようになった。チームを良くしたい気持ちもあったので自分からもやる気のある人を誘って知識を共有し合い、共に自主練習をするようにもなった。参加者が次第に増えていき、谷口塾みたいなトレーニング会もできていた。ストレッチから筋トレ、ボールトレーニング、ゲーム、高い意識で取り組む一つの集団がそこにあった。嬉しかったのは、後輩だけでなく、先輩もついてきてくれたことだった。

2年の前期。
僕はゲームの際Aチームの11人ではなく、Bチームで先生と2ボランチをよく組んでいた。AとBの個人力の差は確かだったが、だいたいいつも、Bチームが結果を残していた。なぜか。僕と先生のボランチのコンビネーションが良く、攻守に渡り中盤でゲームを支配できていたのだ。加えて、Bチームは鼓舞されて自信を持って思い切りプレーできていた。チームとして完全に上回っていたのだ。先生と自分がボランチを組んだ時はいつも攻撃の崩しがすごかった。攻撃に迫力があったし、みながパワーアップしたような感じで躍動していた。
次第に先生からも良い言葉をもらい、かつさらなる要求を得られるようになった。自分がすごく成長しているのを感じていた。と同時に早く先生のレベルを追いこさねばとも強く思った。

2年の冬、選手権大会。
Aチームのレギュラーとして先発出場を果たし、サイドバックでチームの勝利に貢献した。アシストの数はチーム最多だったと思う。また複数ポジション経験し、サッカーはどのポジションもやることは一緒だと僕は感じた。ただ、まだまだ自分としてもチームとしても足りない部分が多かった。結果は準決勝敗退でベスト4。力不足を感じた。チームとしても個としても全然足りない。

3年生が引退し、新しいチームへ。
はじめは別の選手がキャプテンを任命されてやっていたが、新チームですぐに始まった遠征を含め、先生がチームづくり模索中に、途中から自分がキャプテンになった。とにかく全国に駒を進めるには、時間がないと思ってどうしようかと考えていた。
高岡第一高校サッカー部では、キャプテンは走りでいつも一番でないと行けないという流れがあった。比較的、走りは得意であったが全く好きじゃない。しかしここはチームを背中で引っ張るためにもやるぞと決めて1番をとり続けた。全てが1番をとれるわけではないが、一回でも1番をとってやろうと体力を考えずに無茶をしてくる良い選手もたくさんいて、とても励みになった。負けず嫌いがたくさんいると競争心がチーム内で移っていくいき、それが分かったときは本当に面白かった。だれかがどこかで引っ張る時がある。本当は全員がそうである必要がある。しかし、それは簡単なことではなく、もちろんひねくれる人もいるし、苦しくて辞めたいという人もいる。全員が前を向いて取り組めるよう鼓舞し続けていても、とても難しいものがあった。チームというのは本当に全員が同じ意識をもっていなければ成長はしない。もちろん苦しい時もあるが、本気でやり続けて初めて得られる楽しさや感動がある。それをイメージできていなければ続けられない。続けることは簡単ではないなと分かった。全員がキャプテンであり、自分がチームを引っ張らなければと思うことが大切だ、と思った。

3年の前期、総体を迎える。
チームは十分な努力ができなかった。
準決勝まで順調に進み、富山第一高校と対戦。左サイドバックで個人的にはけっこう勝てた。
五分五分の試合をし、試合は拮抗していた。
しかし、後半ロスタイムで失点。結果0-1で負けてしまった。悔しさはあったが、涙は出ない。自分の中で感動はなかった。なぜなら、チームとして悔いのないほど全力でいままでガンバってこれたという自信がないからだ。もっとできたのに、もっとやれることをやってこなかったのに、、、なんでそんなに悔しそうにできるんだ。なんでそんな風に涙が流せるんだ。冷静に怒りが僕の頭の中に残っていた。なんでもっとガンバってたやつが試合に出られていないんだ。なんで試合に出られているのにいままで全力でトレーニングしてこなかったんだ。この時、高校サッカーからの引退を決意した。このチームでは冬の選手権も全国へは行ける気がしない。部活に時間を割くより、それ以外のもっとやるべきことに時間を費やすべきだと。スポーツ校でありながら夏でサッカー部を、引退する初めてのキャプテンとなった。後悔はない。将来のことを考えて動くのに専念しようと決めた。

サッカー部引退後、将来について考える。
このとき自分は体育系の学部がある大学に進み、スポーツトレーナーになりたいと思っていた。体育系大学の他に専門学校にもいくつか足を運んだ。第一志望は筑波大学の体育学部にしていたが、本心は専門学校に行きたかった。
学校では、一度も成績を落とすことなく一番を維持していた。しかし、スポーツを学びたい、かついろんなスポーツをプレーしたい気持ちが強く、新たな決断をした。
夏休み、早速大阪に足を運んだ。そこには体育専門の予備校があった。ここは、体育大学入学を目指し、主に様々な実技を磨くところである。体育大学にはたいてい実技試験があり、第一専門種目と第二専門種目の試験が用意されている。それぞれに毎年課題が出され、その良し悪しが実技試験での点数となる。つまり、一つの種目しかできないのでは厳しいということである。一つの専門種目で勝負する場合は、完全に特別入試となり全国ベスト4以上、もしくはカテゴリー別日本代表やジュニアオリンピック出場などのレベル、実績でないといけない。
つまり、第二専門種目を決めてそれをひたすら高めることが今回の課題であった。そこで、選んだ種目は器械体操である。なぜか。練習はしていないものの、わりと自分のポテンシャルで行けるだろうという変な自信があったから選んだのだ。課題は、鉄棒・マット・跳び箱の3つでそれぞれメニューがある。大阪ではそれらを重点的に学びに行った。
そこでは、同じ大学を目指す仲間たちがいた。
同じ目標をもつ岡山の友だちができた。岡山なまりのクセが強かったが、おもしろくて熱いやつだった。
ほかにも体育大学を目指す同期とも友だちになった。初めて富山県外の学校で友だちを作った。関西の人たちはまるで人種が違った。めちゃくちゃフレンドリーである。富山県ではかなりフレンドリーだと言われている自分であったが、彼らとは仲良くやれそうだと感じた。
オフの日に空いた時間で大阪のいろんなところに連れて行ってもらった。ランニングで海遊館に行ったりもした。大阪の港の雰囲気も感じてきた。とても世界観が広がった。
自分が生きてきた世界は全く狭かったなと。もっと早く外に出るべきだったなと後悔した。

体育専門予備校以外にも、親にお願いし、2年生の冬から東進衛星予備校にも通わせてもらっていた。高い授業料、本当に親に感謝しかない。東進では、勉強が本当に好きになった。特に英語がおもしろいと感じるようになったのは自分の中でも大きな財産である。勉強していてどれも無駄だと思ったものは一つもないと思えるようになった。

つづく。

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