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ゴミ屋敷、ゴミが増えてお金が減る理由

母は1日のほとんどを自宅の居間で、座るか横になるかして過ごしているらしい。居間の真ん中に寝床があり、その周りにたくさんの〝モノ〟が積み上げられている。手の届く範囲にモノを集めて、炬燵に潜るあれと一緒の道理と考えれば、なるほど、と思えるかもしれないが、そうではない。

〝モノ〟の内訳は、レンジで温めるご飯の空容器や、栄養剤の空き瓶など、誰が見てもゴミと判断されるもののほかに、新聞紙、請求書の封書などの紙の束、買ったはいいが、開封しないまま放置された手提げ付きのしまむらやドラッグストアのビニール袋などがある。

「買ったはいいが、開封しないまま放置された手提げ付きのしまむらやドラッグストアのビニール袋」。この意味を人間らしく暮らしている人々に理解することはできるのだろうか?必要で買ったのなら、しまむらで買った衣類は、パッケージを開封して、クローゼットのありものの洋服と組み合わせ、鏡に全身をうつしてみたり、水を通して着ていく日を思い浮かべたりするだろう。
ドラッグストアで買った台所用洗剤は食器を洗うためキッチンのシンクか、ストック棚へ運ぶだろうし、食べ物や薬ならば直接胃へ入れるかもしれない。

両親にはそれができない。

洋服が開封されていない理由はこうだ。ゴミ屋敷があるのはコンビニまで車で20分の超ド田舎。移動手段のメインは自家用車であり、必然的に車が運転できる父が買い物に行くことになる。ネット環境が整っておらず、スマートフォンも無いためネットスーパーの利用は不可。生活必需品の買い物はもっぱら対面で、欲しいものがあれば、父に買い物を頼むほかない。

死んだ父は洋服の知識がない人だった。女性もの、おおよそのサイズ、色ぐらいの判断材料しかできなかったはずで、レースがあしらわれていると肌が擦れて痛いだとか、股上が浅いと履き心地が悪いだとか、そんな考えは1ミリも浮かばない。

母と父はコミニュケーションが下手で、どんなものが欲しいのかの話ができなかった。父が良かれと思って買ってきたものは、母の希望にそぐわない。母はありがとうも言わず、これじゃないと開口一番文句がでる。短気な父は買ってこなければよかった、と全てを投げ出す。着ないならば返品か処分をすればいいのに、それができず、足も腕も通されずパッケージに入ったままの不憫な洋服たちが「袋に入れてそのへんに置いといて」と言う母の指示によって〝そのへん〟に堆く積み上げられていくわけだ。

ドラッグストアでの買い物は〝いつか使うかもしれないモノ〟。そのいつかが来たとしても〝あの時買ったあれ〟は中身の見えないビニール袋に身を隠し、堆く積まれた他のモノと一緒くたにされて探し出されることはない。不憫だ。

読書家が買った本を読まずに溜め込むことを「積ん読」と呼ぶならば、ゴミ屋敷の住人が不用品を溜め込むのは「積んゴミ」とでも呼べるだろうか?
これが、繰り返されて無駄な出費もかさんでいく。

そして、母以上に地べたにどっしり腰を下ろし、ひときわ存在感を放っているのは、ブラウン管テレビである。廃棄料が払えない、という容易に想像できる理由が主だが、ラスボスを甘く見てはいけない。そのブラウン管テレビを「神棚」と称して神聖な場所に仕立て上げ、戦死者のおじさまたちへの供え物や花を飾っている。粗末に扱ってはいけないのだ。もう意味がわからん。にしても、久しぶりに見ると想像以上にデカい。子供の頃、テレビの裏には人がいるんだよ、とくだらない嘘を吐かれたが、本当にそこに人間が1人いてもいいぐらいのデカさだ。母の前では言うのを我慢したが、邪魔でしかない不用品だ。そもそも神棚ってなんだよ。仏壇じゃないのか。神棚とする場所はもっと他にあるはずだろう。

ラスボスが身構える居間に面した4枚扉の掃き出し窓は、曇りガラス、遮光板などが置かれ、ほぼ日光が遮られ少しいるだけで鬱屈としてしまう。1日中蛍光灯を点けたまま。ブラウン管ではないもう一つのテレビがかろうじて電波を受信している。画面には、赤黒い砂嵐を左右に走らせながらも、でかでかと表示されたテレビショッピングの受付電話番号と、薄い皮のトマトもほら!キャベツもこうですよーーー!とスライサーを大袈裟におだてて紹介する男性が映っていた。人がいるみたいで良いと、テレビの電源は24時間365日、もう10年以上はつけっぱなしだと言う。休ませずに働かせるの、ブラック企業が過ぎるのよ。それ以前に電気代が勿体無い。お金がないというのに。

居間の真ん中で座るか寝るかして過ごすのは、ゴミが堆く積まれ、人間の居場所がない。ただそれだけ。母は寝て、起きて。言葉を交わすのは父とだけ。外界には、運転免許を更新したおよそ10年前を最後に一歩も出ておらず、唯一言葉を交わしていた父とも、買い出しの指示、金の話ばかりだったらしい。父も、口を開けば文句ばかりの母とは話したくなかっただろうなあ。


さて。
今後、このゴミ屋敷をどうするかが最大の課題だ。片付けようにも地域のゴミ出しは規定が細分化され、分別の種類ごと有料ゴミ袋を購入せねばならず、かつ10種類近く存在する。回収は週1、隔週。分別を誤ると家にゴミ袋が戻されて、きつく注意を受けるらしい。この、ゴミ袋が戻されることを恐れ、住所が書かれている封書が捨てられずにこれまた積み上がっていくという仕組み。よくできているな。(感心している場合ではない)

勝手に片付けると必要なものの在処を見失ってしまうため、私も下手に手を出せない。
明らかなゴミと判断し、カビの生えた靴や、汚れた洋服を捨てようと試みるも「思い出だから捨てないで」。ゴミ屋敷に住む住人がいう、それはゴミじゃない、大事なものだ。というセリフを8年前リアルに聞いてしまった。

カビの生えたボロボロの靴を前に、思い出だから捨てないで。コントなのか?絶望と裏腹に笑いが込み上げてしまい、貴重な体験に思わずお礼を言うところだったが、今回は少し違う。父がいなくなり、消防隊員や警察官が家に立ち入ったことで、母は吹っ切れたようだった。

ゴミ屋敷に住む私!
私は高齢者!
お金がないの!
借金もあるの!
どうやって生きればいいの!
これとこれは捨てないで。
それは捨てていいわ。

捨てて、いいわ? お願いしますだろぉぅうう!?
なんだかエネルギーが満ちたようにも思えてひどく腹が立っているが、張り切って分別をうたい自然に優しく、高齢者に厳しいこの町に対しても正直腹が立っている。

だが、捨てる許可さえ出れば少しずつ前に進める。
これでようやく次のステージに行けるのか。
ラスボス討伐は程遠い。

つづく

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