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「生涯発達」と「書」の関係性を考える⑥

「そもそも前衛芸術とは何かというと、芸術という言葉で代表される美の思考や観念といったものをダイレクトに日常感覚につなげようという試みである」

赤瀬川源平著、「千利休 無言の前衛」を久しぶりに読み返した。買った時にはそれほどひっかかることもなかったのだが、あらためて今読んだら次から次へと唸りたくなる言葉たちが並んでいた。

「ズレたもの、歪んだもの、欠けたもの、見捨てられたもの、そういう人々の意識の外側にあって、人々の恣意を超えて鮮やかなもの、それらが彼らの美意識の先端にあったのである。」

「つまり新しいことをやれ、自分だからこそのことをやれ、ということである。つまり芸術の本来の姿、前衛芸術の扇動である。そのような、人のあとをなぞらず、繰り返さず、常に新しく、一回性の輝きを求めていく作業を別の言葉では「一期一会」ともいうわけである。」

書道というものをスタンダードに習い続け、創作の段階でつまずいて作家になることを諦めたこの私は、書の世界のアウトサイダーアーティストたち(知的障害や自閉症のある青年たち)と出会った。それは「書道を楽しんだことがない彼らに教えてあげてほしい」という思いから始まった支援学校時代の書き初め。拙いからこそいい作品もあるのではないか、程度の予想はあっという間に覆される。筆遣いを知らないはずの彼らの生み出す書法。知らないからこそ生み出される、まさに彼らにしかかけない作品群。歌いながら歌詞を書き連ねる楽しそうな迷いのない表情。墨まみれになって感触を楽しむ豊かさ。胸が高鳴った。わたしにはできない。そして気がついたらすっかり彼らの書に魅了されていた。

あのとき感じたのは、感動と同時に無力感と悔しさだったのかもしれない。その後教員を辞めてからも自分自身が書く気にはなれなかった。そんな私だからこそもっと自由になるための書道塾を現在、営んでいる。ほぼコンプレックスから始まった。師範の名はあれど、他の先生方のように「〇〇展 △△賞受賞」のような受賞歴などはほとんどない。だからこそやっている書道の場である。

とにかく楽しく自由に書いて満足度は高いと思う。しかし一方で、ただ筆と紙があるだけでは、彼らは書くことを楽しんではいない。ここだからいいのだという保護者からの話を聞き、自分自身の働きかけは一体どんなものだろうかと考えていた。
私が何をしているのか。おそらくそれは、彼らが今生み出している書を見極めながらその最もよく表現されるであろうお手本をそっと差し出すこと、筆をそっと変えること、墨を、紙を、文字を、提案を、そっと与えるという技術。それはしかし、墨を、紙を、筆を、そしてある程度の知識を知らなければならないという意味では、私がしていることの説明が成り立つ。古典臨書の必要性、道具の特性、それらを知る自分にできること。それを瞬間で見抜き、リズムを崩さないようにさりげなく入っていく。発達支援そのものである。アセスメントとコーディネート、これに尽きる。

こうした試みについて、じっくりと振り返り、この度の展示の際にあらためて自分自身が見えているものについて口にした。

坂部氏が書いてくれたことが素晴らしくてまた唸っている。

いまやっていることが前衛芸術かどうか、アートなのかなどは、どうでもいい。しかし、慈善事業でもなければ生涯教育の一環とかいうだけでもない。ただそれだけはプライドとして保ちたいと思った。そして何よりそれは、ここにきている彼らの人権を守ることにもなりそうだ、とさえ思った。


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