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「生涯発達」と「書」の関係を考える③

学習意欲とは本来高いものである。「知りたい」「やってみたい」という思いはもともと備わっている。「誤学習」として、「勉強はやりたくないもの」とインプットされてしまっているに過ぎない。

支援学校の高等部を卒業し、ある施設に通っている青年、29歳。卒業してからずっと同じ施設だから10年勤めている。しかしながら、その生活ぶりは10年前から変わっていない。野球と相撲が好きでニュースも知っている。17年前に立ち上げたアドベンチャークラブ(障害の有無にかかわらずソーシャルスキルを学ぶ会)に所属しているので、最年長として「会長」として挨拶や集まりに母親と一緒に来てくれる。

そんな彼が、最近書道塾に来てくれた。初日は母親とともに。「やりたい」とは言ったものの、ただ会いたいだけとか過ごしたいだけなんじゃないかと母も疑心暗鬼だったし、なにより「書く」ということが苦手なのだ。いろんなことを話せるのだが、絵を描くこともできない。おそらく「形をとらえる」ということが苦手なのだ。書くことのできる文字も少なく、名前と日常で何度も書いている文字くらい。

30分くらいで飽きるのでは、という母親。しかし初日から彼は、とにかく「書きたい」のである。「まだ書くよ」「次はこれ」「もっと」「あとは」とつぶやきながら。2回目もそんな様子で、ついに母親も「もういいんじゃない?」とか言う始末である。(調子よく書いているときに決して言ってはいけない!)そこで、次からは「お母さんは来ないで」ということにした。考えてみれば当然である。29歳の青年がかあちゃんに付き添ってもらっている場合ではない。

さて、ひとりで来た彼は気のせいかのびのびして見える。「形をとらえる」の苦手さがあるために、書の本から知っている漢字を見つけて書くのだが、「お手本を見る」というよりは「脳内の記憶を再生して書く」ので、自分のイメージで書いてしまう。だから不安になりながら焦って書く。見方がわからないのだ。そんな彼に「ゆっくり書きなさい」なんて言っても無駄である。どうしたものか。

そこで、「身体で覚える」という手法をとってみた。お手本を書きながら、擬音とカウントで「シューッとはらって」「筆のお尻を突き出して、1、2、3」と声をかけつつ、オーバーなくらい身体で書く様子を見せた。足の位置、腰の位置、左手の位置、そうやって書いていったのが写真である。

本人なりに、「うまく書けた!」という達成感から、いつもは目線しか送らないのだが「見てください!」と私の母にアピール。(ちなみに私の母、ADHD傾向の強い72歳、は書道塾のアシスタントである。彼女の方が師匠感が漂いすぎている上に、青年たちにモテモテである。)楽しくなりどんどん書いていく。こうなったらもうほっといたって書きたいように書くのだ。今までは次々新しい字を書いていたのに、自分からもう一度同じ字を書くようになる。練習という意味がここではじめて分かってくる。「もっとこういうふうに書きたい」が出てくる。そして、勝手に伸びていくのだ。

学習、とは何か。

彼らが身をもって教えてくれる。

彼らの学び方を知って、ちょっと支援するだけでいい。

そう確信した1日。






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