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書道とわたし

 本日わたしは誕生日を迎え、45歳になりました! 今日は、せっかくなのでわたしがなぜ書道を始めたのか、そして研究所開設の目的をまとめました。  

 小学校のころは、集団が苦手、雑談できない、発表できない、作文書けない!という子ども時代。小2で書道に出会い、おとなしくしていることが得意なわたしは「書道ならできる」と思い、高校までお手本通りに書ける自分に満足していました。大学生の時に師範をとり、自分には書の才能があるとすら思い込んでいましたが、公募展に出展するときにお手本がないという状況の中で、「何が書きたいのか」が分からなくなったのです。そこから作品制作そのものが止まってしまいました。  
 わたしが他の人よりも際立っていると思っていたのはなんだったんだろう。制作することができない自分への劣等感で、しばらく書道から離れていました。
 

 その後、わたしは教員になり、すっかり書道とは違う方向に進んでいきます。特別支援学校の教員をしていたあるとき、書初めをクラスで行うことになり、いろんな筆や紙を使って子どもたちに体験してもらうと、それはそれは豊かに伸びやかに表現をし始めたのです。アール・ブリュット(生の芸術)という言葉そのものでした。

 わたしたちが学んできた「書写教育」とは、あくまでも「書道」の一部であり、「正しく文字を書く方法を学ぶ」という狭い部分での毛筆体験であることが分かります。得意不得意があるのが当然、そして手と目と体幹の発達に関わるため、姿勢はおろか、筆を持つこともかなりの個人差が生まれるのが当然です。だからこそ、「お手本通りにみんなで同じものを書く」という設定自体が非常に厳しいものであることは一目瞭然なのです。
 
 それによって生まれたのが、「書道は苦手だからもうやりたくない」という大人たちです。「面倒くさい」「うまく書けない」「やりたくない」「下手だから」と、結果、中学校卒業してから一度も筆を持っていません、という声が多いのです。みんな道具を持っているのに、、、。それってやっぱりもったいない。

 「比較されること」

学校教育で最も悪しき文化だな、と思っています。
比較さえしなければ、みんなのびのびしているだけで済みます。
得意なことは得意なまま活かす。すると、自然に不得意なことができるようになっていくのが人間の発達なのです。

 だからこそ、研究所の目的のひとつは「書道教育のアップデート」です。比較社会、分断意識、それらはどこから生まれるのか。墨で遊ぶことを通して、大人がそれを体験し、本来の「書く」という行為を味わうことで、なぜ自分の字を気に入らない、あるいは思ったように書けないという感情が生まれるのか、に気づく場を作りたいと思いました。

 何より、「うまい」や「へた」ってなんだろう。自分の字の魅力はどこにあるんだろう。そんなことを実践しながら話していくことで、「ものの見方」「ものの見え方」が変容していくはずです。そして実はそれは、わたしたちの「生き方」にも応用されることかもしれません。

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!

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